Archive for February, 2010

* エミリ・ディキンスンのすみれ

2010/02/06 | Filed under , | Tags , .

MOE2010年3月号のBook in Bookの話題のつづきです・・・

P68と69のすみれの絵のページは,綴じてあるのを取り外せば,一枚の絵になります。まんなかに,ちょっとホッチキスの穴はのこりますが,詩の入っている絵を,ピンとかで壁にはったりして,眺めていただけるかも,と思いながら作りました。

P69の詩に出て来る,「紫色の仕事」。ディキンスンにとって「紫色の仕事」は,「詩作」そのものだったのだと思います。

そして,わたしは,人の数だけ,その人にとっての「紫色の仕事」があると思っています。

たくさんのすみれが,それぞれの紫色の花を咲かせている野原の絵を描いたのは,そうやって,めいめいの人が,ディキンスンのことばで言う「紫色の仕事」をして生きている姿を,そこにかさねて描いてみたかったから。

それにしても,今回ご紹介した6篇の詩のなかで,一番訳でなやんだのは,この詩 (F564)でした。

この詩をはじめて読んだとき,「すみれ」だと思いました。でも,ちょっと難解な詩です。

「背をのばしたあとで,姿をかくす」 「夜は,つぐなってくれない」って,いったい何のことでしょうか。

直感としてイメージしたのは,一年を通してのすみれの様子でした。園芸好き,植物好きの方なら,よくご存知だと思いますが,すみれは,春に花を咲かせたあと,夏頃,葉を大きく伸ばして,花の時期よりもうんと背が高く,大きな株になります。そして,やがて葉が落ちて,根だけで休眠状態になって冬を越します。「夜がつぐなってくれない」というのは,もう何度夜がきても,つぼみはできないということなのじゃないかなと思いました。

「紫色の仕事」は すみれが花を咲かせるということ。。。

そのあと,草の下にある部屋にひきこもる,というのは,根だけで冬越しする「休眠」で,それを「わたしたち」と重ねているのは,「わたしたち」が死んだ後,お墓に入るということになぞらえているのだと思います。

春になれば,まためざめるはずのすみれの休眠状態と,わたしたちの「死」を重ねるのは,キリスト教的な感覚かもしれません。キリスト教では,人の死は「休眠状態」と同じで,みんな最後の審判の日にはよみがえって,天国に行けるかどうかはその日に決まるのです。お墓の中で眠るのは,それまでの間だという考え方が,あるからなのでは。

季節ごとのすみれの生態や,「多年草」であることを,冷静な観察者の目も持っていたディキンスンは,熟知していたのではないかと,わたしには思えるのです。

「わきまえて」これは,とても悩んだことばでした。原詩では「Worthily」,じつは,前の連の,夜が「つぐなう」の語は,recompenseという語が使われていて,worthilyと意識してセットにされていると思います。recompenseには「つぐなう,あがなう」という意味の他「報酬により報いる」という実際的な意味もあり,またworthilyも「相応の報酬を得られる」「ふさわしく」という意味があり,その他「殊勝に」「健気に」「分をわきまえる」という意味もあります。つまり,自分の行動に対し等価値の報いを期待するという意味と,神様に与えられた,自分の分を全うするという意味との両面の意味が含まれるのです。

ディキンスンの草稿では,その他ここの異稿としてprivatelyという語もあったようです。

そこで,Worthilyの訳語には,ほかにも,いろんな語を考えてもいたのです。「日本語としての自然さを優先するなら,「ひっそりと」とか「つつましく」の方が,きれいかもしれないな,とも思ってみたり。けれども やはり,すみれとしての「意思」の存在がすこし見え隠れする語として,「わきまえて」を選んだのでした。でも,もしかして,別の機会があったら,このあたりの箇所は,またちがう訳をしたくなる可能性が一番大きい箇所です。

そして,最後の連で,ディキンスンは,自分がすみれのように生きられるかどうか 自分に問いかけています。ここも,異稿があって,「すみれのように生きられる?いや,無理」とほとんどネガティブに聞こえる方が,いちおう正規のテキストで,でも候補の方では,「生きられるんじゃないかしら」とポジティブな雰囲気になっています。

最後の2行,「うちで育てたひょろひょろミントでも,みつばちの飲みものを 作れるとしたらー」は,原詩では,As make of Our imperfect Mints, / The Julep - of the Bee - です。

不完全な,育ち方のあまりよくない,うちの庭のミントでも,みつばちが蜜をもとめて訪れてくれるわけだから,完璧な自分ではなくても,何かをすることはできる。だから,自然のリズムに従って,季節がめぐってくれば「紫色の仕事」をし,また季節がうつりかわったときには粛々と,草の下にひきこもるすみれのように,死という自然をうけいれる,そんなふうにありたい。

と,ディキンスンは言っているのではないかと 感じるのです。

わたしは,この詩をこんなふうに感じ取りましたが,ちがうふうに読めると感じる読者もいらっしゃるかもしれません。そういうふうに,人によって感じ方がちがう場合があって,ときには答えが一つではないのも,ディキンスンの詩の世界の 広さだと思います。

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ディキンスンに興味をもたれたら・・・今のところ,日本語訳の全詩集は,出ていません。(いつか,そういうのが出たら,もっとディキンスンが身近になると思うのですが。)

でも,いくつかのおすすめの本があります。古書としてしか手に入らないものもありますが,どれも,おすすめです。

ディキンスン詩集(海外詩文庫)新倉俊一 訳 思潮社 刊

エミリ・ディキンスン詩集「自然と愛と孤独と」(続,続々あり )中島完 訳 国文社刊

わたしは誰でもないーエミリ・ディキンスン詩集 川名澄 訳 風媒社刊

エミリ・ディキンスンのお料理手帖 武田雅子 鵜野ひろ子 山口書店刊

原詩の全詩集は,おもに2種類あります。

Complete Poems of Emily Dickinson/ Thomas E. Jhonson

The Poems of Emily Dickinson / Edited by R.W. Franklin

Thomas E.Johonsonは,1950年代に,はじめてディキンスンの手書きの草稿を体系的に整理,編集して,全詩集をまとめあげた人。

Franklinは,Johnsonのお弟子さんで,Johnsonの後を次いで,Johnson版をさらに整理し直し,必要な修正を加えたものを作ったそうです。今,研究者の先生方は,Franklinの詩集を基本的に使用されるようです。JohnsonとFranklinのバージョンでは,詩の順番も違っていたり,所々では,詩文そのものが少し違っていたりします。膨大な量のディキンスンの草稿は,当然手書きのため,読み方に異論が出る箇所もあり,またディキンスン自身による異稿も多く,それらを一つの形にまとめるのには,それぞれの編集者の研究による判断が働いている箇所がある,ということです。

でも,JohnsonとFranklinに共通しているのは,出来る限り,ディキンスン自身の原稿に忠実であろうとしていること。ディキンスンの死後すぐに,メーベル・トッドなどの縁者たちによって出版された初期の詩集は,当時の価値観や,常識とされた表現に合わせて,手が加えられてしまっているのです。実は,このことが,詩の価値を半減させ,ディキンスンが認められるのが半世紀近く遅れたとも言われているようです。本格的にディキンスンが読まれ,研究されるようになったのは,Johnsonによって編まれた全詩集が出てからだということです。

Franklin版が出る前は,ディキンスンの詩の番号はすべて,Johnsonによるものと決まっていたのですが,最近ではは,F564 J557 というふうに FかJがつけられています。モーツァルトの楽曲を整理編集したケッヘルの業績から,モーツァルトの曲にはKではじまるケッヘル番号がついているのに,似ていると思います。

実は,今,神戸女学院大学で,ディキンスン研究の専門家である鵜野ひろ子先生が教鞭をとっておられるので,数年前,先生のディキンスンの講義に1年間個人的に通わせていただきました。その時に教えていただくまで,今は基本テキストがFranklin版に移行していたことを知りませんでした。

わたしは,今は基本的にFranklinの方で訳(個人的に趣味で,すこしずつ訳してきました。ほんとに,すこしずつですが)をしますが,もともとJohnson版のComplete Poemsから入った親しみで,今もJohnson版の詩集もよく開きます。とくに,3巻セットで箱入りになっているJohnson版は,本自体が美しく 置いているだけでもなんだか満ち足りた気持ちになります。(まだAmazonなどもなかった1992年ごろ,丸善で取り寄せてもらって,2ヶ月かかって届きました)

余談:左にあるのは,子供の頃,何度も読んだ なつかしい「嵐が丘」の本。この間,実家でみつけて,思わず持って帰ってきました。

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* エミリ・ディキンスンの庭から

2010/02/03 | Filed under , | Tags .

Book in Book (綴じ込み冊子)を作らせていただいた,MOEの3月号が,今日発売になりました。

今月のMOE,巻頭の特集は,「わたしのワンピース」という絵本でおなじみの,西巻茅子さんの特集です。西巻さんは,刺繍による絵本も手がけていて,やっぱりご自身も,洋裁への愛着がとても深いそうです。

そのほか,絵本のほか手芸本も出しておられるイラストレーターのスドウピウさんや,わたしと同じく京都在住で,布の型染めでいろんな作品を作っている関美穂子さん,それから今回のBook in Bookのデザインをしてくださった大谷有紀さんの2eというユニットによる,びっくりするほど可愛いレースや刺繍の雑貨など,刺繍や手芸,布の手作りが好きな方にも,ツボにはまるような情報が満載で,本当におすすめです。

そして,今回 じぶんの手がけたBook in Bookについて…

森,野原,薔薇… ディキンスンの詩に こんなふうに絵を合わせてみたいな-と,思っていました。たぶん,もう20年は思い続けていたこと。それをずっと以前にMOEの編集のMさんにお話したことがあったのですが,今回こんな機会をいただけることになったのです。

草花そのものを素直にうたった美しい詩。草花というモチーフを通じ,心のなかのことを,表現した詩。今回えらんだディキンスンの詩は,長年いつも読み返してきた作品です。

見開きのすみれの野原のページにある,ふたつの詩は,生き方について語っています。

それから,薔薇の精油の詩は,ディキンスンにとっての「詩作」をテーマにしていると思います。

ディキンスンの詩は,一読しただけでは意味がわからないものもたくさんあります。原詩ならなおのこと,ですが,それは日本人のわたしたちが英語で詩を読むからだけではなく,アメリカ人の人が読んでも,時には「サッパリわからない」そうです。

そういう時は言葉どおりに素直に読んでみると,心で感じ取ることができるのよ。。。というのは,恩師の(ディキンスン研究の第一人者)鵜野ひろ子先生の言葉でした。

今回の絵,去年の11月と12月の2ヶ月ほどの間,描いていました。表紙と背表紙になっている野原の絵は,じつは,p64と65の ねむっている花たちが「めざめた」野原のイメージです。

何度も描き直したりしながら,でも,描き終わるときには寂しくて,もっと,ずっと描いていたいと思ってしまいました。

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