Archive for July, 2010

* 森のくまっこ

2010/07/28 | Filed under 動物, | Tags .

知床の砂浜にヒグマが出たとか、盛岡の動物園に野生のツキノワグマが迷い込んだなど、この季節はとくにクマ出没ニュースが多い気がします。

動物園に迷い込んだ熊は捕獲され、山に帰されたそうですが、、そこが動物園だから山に帰してもらえてラッキーだったかも。というのも、その少し前にも盛岡市近くの川にクマがいるのがみつかり、駆除ということで射殺されてしまったそうなので。

クマが人里に出て来る、とくに秋にそれが起きるケースは、山で,クマの主食であるドングリの出来に影響されるという説があります。クマの好むドングリは,落葉広葉樹の自然林に多い、コナラ、ミズナラ,ブナなどのブナ科の木の実で,杉や檜の大規模植林によって,,クマの生息域だった、そういう広葉樹の自然林の面積が減っていると言われています。地域にもよりますが、山奥に行く程、こういう人工の杉や檜の森が、たくさんある所があるようです。

それにひきかえ、山に近い集落付近は、今や過疎化で人がめっきり少なくなって、里山と呼ばれる周辺の森が野生がえりしているため、クマや野生動物の食べる実のなる蔓草などが繁茂し、集落では柿や栗の木がほったらかされていたり、農作物のゴミが捨ててあったりしてこちらも食べ物が豊富なため、クマの方でも人里近くの方が暮らしやすい、と思ってる傾向がうかがえるとか。

人工林といえば、京都の周辺にも、杉を人工的に密集して植林した森があります。昼でも真っ暗で、種々雑多な木がある森とちがって、下草もなく、まるで「黄泉の国」とでも呼びたくなるほど、不気味で陰鬱な雰囲気です。遠くから見るとこういう場所は、山にあって まるで「畑」のよう。千歳アイヌの猟師、姉崎等さんの話を聞き書きした本「クマにあったらどうするか」では、北海道でさえも奥地まで人工林で、そういう所は,過去にヘリコプターや飛行機で農薬を一斉散布していたこともあり、ミミズ一匹さえもいない死んだ森になっている、と姉崎さんが語っておられました。

ツキノワグマやヒグマは,通常はヒトを避けて生きていますが,ヒトと遭遇して緊張している時に,クマがパニックになると,「逆ギレ」して,やぶれかぶれで人を襲うというパターンが多いそうです。また逃げるものを追いかける性質があるため(犬みたいですね),後ろを向いて逃げると襲われてしまうとか.これはヒグマでも同じのようです.そして、ヒグマはツキノワグマに比べると執着心がとても強いのだそうです。

山に接した場所で農業を営む人にとっては,クマに作物を食害されるということは死活問題でもあり,体格も大きいし力もあるので,対応を間違えて人を襲うと、命に関わる事故にもなることから,駆除されてしまうことも多いのです。

「クマは眠れない」東京新聞出版局

この「クマは眠れない」という本は、日本に最初に「奥山放獣(捕獲した動物を,奥山に放す)」という方法を導入したツキノワグマ研究者の米田(まいた)一彦さんの一番新しい本(2008年刊)。米田さんは,青森出身で、秋田県庁にお勤めだった頃、鳥獣保護行政に携わっていたそうです。苛酷なクマの駆除の現場にも数多く立ち会い,やがて県庁を退職してフリーのクマ研究者として活動されるようになりました。その後、広島県に居を移し、絶滅の危険がささやかれている中国地方のクマのために,現在も広島県で活動中。韓国や中国のツキノワグマ保全にも尽力されています。この本は,最新の厳しい現実と情報分析が内容ですが,それと共に、著者がどんなにクマを愛してるかが伝わります。

巻末、「あとがきにかえて」として収録されている 奥州ことばで書かれた詩があります。

「くまは いつ眠るんだべえ」

(前略)

なして人を襲うんだべ。そごが分がらねえ。それさえなげればなあ。

おめだじは、ほんとに融通あ利かねえ、やじらだ。

いづも同じことをして負げる。

吾(わ)ど、そっくりだな、おめだじは。

(中略)

見たいことが、あるんだよ。

あめ、ゆじっこ降ったら木の穴っこさ潜る、おめえが、

赤ん坊のように無心に眠るところを。

その歯で、かもしかを食い、

その爪で人を襲った、おめえが、

凍れだ(しばれだ)山奥の木の洞で丸ぐなって、

今は穏やかに、まなぐを閉じて、眠っている。

(後略)

奥州人 米田一彦

米田さんの主宰されている日本ツキノワグマ研究所のホームページに,去年、乗鞍岳のバスターミナルに熊が侵入し、9人が怪我をして、最後にクマが射殺された事故の報告が載っています。これによると,一人が襲われていると別の人が助けに来て、またその人が襲われていると、また他の人が助けに来て、というふうに順番に次々襲われて怪我をしたそうです。

その中で、近くで山荘を営み,このときにクマに襲われている人を助けに入り、また自分も襲われて重傷を負った方が,「襲ったクマを恨むわけではない」とコメントされたというのが印象的でした。標高2700m、そこは、もともとは人の領域ではなかったことを、そこに暮らす方はふだんから感じておられるのかな、と思いました。

(文中より「beachmolluscひむかのハマグリ」にリンクさせていただきました。管理者様に御礼申し上げます。)

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* 野の花えほん 秋と冬の花

2010/07/26 | Filed under , 野の花えほん | Tags .

「野の花えほん 秋と冬の花(写真右)」が出来上がりました。

去年の今頃から11月頃までずっと、近所の川縁や道ばた、森のそばなどを歩いて野の花を探し、絵のエスキースを描くという毎日でした。掘り出し物の草花がみつかる、数々の「穴場」もあったのですが、それらの多くは暫定的な空き地で、今はなくなっている所もあります。キツネアザミのいっぱいあった空き地には家が建ち、川縁の美しいイシミカワの茂みがあった場所は、この間の大雨による増水で根こそぎ土が全部流れて川になってしまいました。

はびこる時には「雑草」と呼ばれたりもしますが、野の草花の存在は、こんなふうに時として儚いものです。だから、こうやって描きとめて、本の中にしまっておきたくなるのだと思います。

春夏と秋冬、2巻セットの本なので、こうやって2冊を並べられる日が待ちきれず、見本が届く前日の夜は、そわそわして寝付けませんでした。(この本の製作にたずさわって下さった、編集の吉田さん、装丁のタカハシさん、デザイナーのカワイさん、佐久印刷さん、そして、版元のあすなろ書房のみなさま、ほんとうにありがとうございました)

本が出来上がる時というのは、うれしいと同時に、とても緊張します。また、ページ数の都合で入れられなかった植物もいろいろとあったり、作っている途中はこれ以上余力がない状態の全力投球なのに、終わってみると、もっとあんなことも、こんなことも、と至らない点が目についたりもします。

ジャズシンガーの綾戸智恵さんが「一つアルバムが出来上がると、不完全な所に気づいてしまう。それで、また次のものを作りたいと思える」と書いておられましたが、私も同じ気持ちです。

たぶん、自分の作ったものに100%満足できる瞬間というのは、永遠に来ないのでしょう。。。それでもやっぱり本を作るのが好きです。

「あんなことも、こんなことも」という気持ちを次への原動力に、次の作業を始めています。

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* 雨の思い出

2010/07/22 | Filed under 動物, 生活 | Tags .

といっても先週の今頃の思い出です。梅雨明けとともに猛暑の日々が続き、今年は太陽の黒点活動が減ってて寒冷化というニュースを半年くらい前に見たのにもかかわらず、やっぱり日本の夏という感じですが、(寒冷化と言っても、年平均気温が0.5度下がるくらいとのことでしたので、こんなものかもしれません)先週の今頃、西日本は大雨で、わが家の近所を流れる高野川も大増水していました。

堤まで水が来て、カヤネズミが棲んでいたかもしれない、川縁のオギの大群落も完全に水没・・・

すると、堤の石垣に、亀が濁流から避難して休んでいるのを見つけました。(しかもこれ、スッポンのようです。かなり大きくて、全長40cmくらい。当初、全然動かないので、死んでいるのかと思ってじーっと見ていると、30秒に一回くらい、ぱちっとまばたきをするので、生きているということがわかりました。

しかも、少し離れた所には、くさがめ(たぶん)もいました。こちらも大きさは30〜40cmくらいあります。

上流から、激流に流されてきてしまったのでしょうか。

近所の友達に、高野川でスッポンや亀を見た話をすると、その人の友達も、先だって出町柳の橋近くでスッポンをつかまえて食したことがあるそうです。野生のスッポンは、血液の中に寄生虫がいるので、生き血を飲むのは御法度、そして泥臭さを抜くために、捕獲後、2週間程自宅で真水の生簀を作って飼育しておいてから、さばいたそうです。

なんとワイルドな。

ふと、夫の友人で、いかにもスッポンをさばいたりしそうな人物が一人思い浮かんだのですが、とにかく、私はスッポンは独特のえぐ味が好きになれないし、生きてるのを眺める方が楽しみなので、食べようという発想はありません。

今週、川はまだやや水は多めですが、なぎたおされたオギの群落もまた水面から顔を出し、すっかり水に浸かった所に生えていたオニユリも、また咲いています。もちろんあのスッポンも亀も、もう姿はみえません。

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* アーロン収容所 

2010/07/17 | Filed under | Tags , , , .

昔、父の書棚から出して読んで、断片的にそのおもしろさを覚えていた本が、去年、中公文庫から再刊行されました。

著者の会田雄次さんは、もう鬼籍に入られていますが、京大の人文研に長く勤められた西洋歴史学の研究者。戦時中、軍に召集されて、ビルマに送られ、敗戦と同時にイギリス軍の捕虜になられました。捕虜として収容されていたビルマの捕虜生活の思い出をつづった本です。

花輪和一さんの、映画にもなったマンガの名作「刑務所の中」というのがありますが、この「アーロン収容所」も、それに類するおもしろさです。会田さんが所属していたのが京都で召集された部隊なので、切迫していてさえもどこかおかしみのある関西弁の会話(まわりを英軍に囲まれ、突撃して玉砕すると言ってきかない若い将校に、30すぎの「オッサン」の兵士が、「アホいいな、まだ大丈夫や、ひこ、ひこ。(退こう、の意味)」と声をかけてるとか)、捕虜になった兵たちが、英軍倉庫から「ちょろまかして」きた粉でまんじゅうを作ったり。兵士は、いろんな職業の人がいるから、何でも作れるのだそうです。それで、まんじゅうを作っている小屋には、ぼろ布を仕立て「まんじゅう」と書いた暖簾まで下がっていたとか・・・

こんなことばかりを書くと楽しそうですが、本の中味はそれが全てではなく、会田さんは、この経験を通じて、イギリス人や西洋の文化を冷静に観察して、その人種差別意識や、老獪な残忍さをいやと言う程知り、それまでの日本のインテリが持っていた、「憧れの西洋」的発想の修正をせまられました。

たとえば、イギリス人は誰も日本人と直接話そうとしない、イギリス人の女性兵士は、日本軍捕虜がそばにいても、平気で全裸でいる、なぜかというと日本人は動物と同じだから、「家畜」に裸を見られても恥ずかしくないのだと。

また、食事に出て来る米の品質があまりにひどいので、軍の上の人を通じて英軍にかけあってもらった所、「あの米は、家畜の餌として使用しているが、なんら問題はない」という答えがかえってきたとか。。。

中で、気さくに日本人とも話そうとした人が一人だけいて、その人はアメリカに長く住んでいたらしいということでした。会田さんの観察では、イギリス人やフランス人の持つ「老獪さ」というものが、西洋文化の裏の面として歴然としてあるということです。(ちなみに、イギリスの人種差別は私自身も経験したことがあります)

その他、日本人には好意的だったインド兵、ビルマの人たちのことも、客観的にたくさん書かれています。インド兵とビルマ人は、仲が悪かったそうですが。。。

会田さんは、歴史的に牧畜の文化をもつ白人が、捕虜を管理し、少ない食事(餌)で、最大限に働かせる、その合理的な考え方を、歴史学者として冷静に観察して分析しています。有色人種=家畜と同等、という意識を明らかにもっている彼らですが、怪我や病気をした時は、日本軍よりも手厚く手当をしてくれたし、殴る、蹴るなどの無駄な暴力はいっさいふるわなかったそうです。また、イギリス人の中の「階級」が、見た目でわかる程だということも書いています。

先週、IMF(国際通貨基金:先進国、おもに白人の国がお金出し合って作った信用組合みたいなもので、お金が足りなくなった国にお金を貸して助けたりする機能があります。今まで白人の国が中心だったため、アジアなどの国の出資比率が高くなることを警戒していたようですが、中国などが経済成長して、そんなことも言ってられなくなってきつつあるそうです)が日本に消費税を上げるべきだという提言をしてきたというニュースを読んで、「アーロン収容所」に書かれている合理的なヨーロッパ人というのを思い出してしまいました。

IMFの中心は、 アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスなどの白人の国々ですが、日本はアジアの国としては突出して、現在、出資比率では2位です。麻生首相がサミットだかGナントカかに出かけて、リーマンショック直後だったので、IMFに7兆円とかを寄付?(表向きは出資)したんじゃなかったでしたっけ。それなのに、なんでそんなことIMFに言われなきゃいけないのかな~~と一瞬思ったものの、逆にそうやっていつもお金出す立場の日本だから、なのかもしれないですね。

日本は財政が破綻しそうで、ギリシャみたいになると言わます。けれども、日本は借金が極端に多いとは言え、その借金、つまり国債の引受先は90何%が国内で、自分の国以外に多額のお金を貸してもらってたギリシャの状況とは全然ちがうんじゃないのかな、というのは、私はあまり経済のことを知らないものの、素朴な疑問なんですが。。。それってつまり、奥さんと子どもを外食に連れて行くのに、お父さんはおこづかいを持ってないから、奥さんと子どもたちにお金を借りているのと同じ状態な訳です。お父さんにお金がなくて、奥さんにも子どももお金なくて、しかたないので、近所の鈴木さんからお金を借りて毎日レストランに食べに行っているような状態とは全然その深刻さが違うと思うのですが。。。

でももちろん、だんだん奥さんと子どもにもお金がなくなりそうなので、お父さんはこのままで行くと近所の鈴木さんに借りにいかないといけなくなりそうだから大変だ!というのが今の日本の状況なわけですよね。それは主婦感覚からいっても、確かに危機的状況ではあります。

ギリシャは、お父さんにも奥さんにも子どもにもお金はないけど、近所の鈴木さんや、佐々木さんや、田中さんたちが競うようにお金を貸してくれてしまったおかげで、返せる範囲以上に借りて贅沢しすぎて(住宅バブルとか)みんなにお金返せなくなって、お金貸した人もお金が返って来ないので家計に影響して困ってしまったという状況な訳です。

本当は、日本よりもイギリスなどの方がさらにギリシャに近いのでは?そのような状況で、この前のG20で、各国が、財政を建て直しましょうという相談をして、共通の目標を設定したんだけれども、日本は例外になれました。それは、上のように借金が多いとはいえ、その性質が国内的なものだから。他の国は、たとえばドイツでも、ドイツ国債の半分は他国が買っている状態、つまり半分は国外の人にお金借りてる状態なわけなのですから。。。

余談ながら、そのG20で例外になったというニュースを朝日新聞と読売新聞のネットニュースで読んで、論調が「疎外された」「孤立した」という感じだったのが不思議でした。借金多い国の人たちが集まって共同目標作ってお互い監視し合うのを、日本だけ入らなくて良かったのをよろこばないで、どうして「孤立」「疎外」っていうネガティブな言葉になるのかなー?お互い借金の持ち合いをしてる国々は、いざというとき助け合うから?でも、日本は、IMFにもいっぱい出資してるんだから、いざというときは、IMFに対して、(焼け石に水でも)お金出して、って強気で言う権利くらいあるはずです。日本だけ、独自の道があってもいいのではないでしょうか。

そしてIMFに「消費税上げた方がいいんじゃないスか?」って言われて、IMFが日本のためを思って言ってくれたなんて 勘違いしそうになりますが、そんなはずは絶対ないわけです。IMFはただ、日本は増税でも何でもして、IMFにまたお金を出して欲しいから言ってるし、世界2位とか、中国に抜かれて3位になるとしても、そういう規模の日本経済が破綻したら、やっぱり世界中に影響を与えてしまいますから、そういうことを真剣に心配しているだけで、日本人の生活を心配して言ってる訳ではないのです。

そして西洋の人というのは、別にそう思って言ってるということを、隠したりしないはずだと思います。

自分達の利益になることを主張するのは理にかなっていて、それは恥ずかしいことでも何でもない、というのが、「アーロン収容所」にも書かれている西洋文化の「合理性」なのじゃないかな、と思うのです。自分たちの利益だけを最優先に主張するのを「恥ずかしい」と感じる日本の美意識は、悲しいけれども、そこで少し弱さにつながってしまうのかな、とも思います。

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* ベジャス君からの手紙

2010/07/09 | Filed under アート, 生活 | Tags .

ベジャス君から始めて私宛に手紙が届いたのは去年です。楽しい絵をいろいろと描いた便せんと封筒に、雪だるまの絵を描いたコースターが入っていました。

ベジャスは,カナダに住んでいる13歳の男の子だそうです。その少し前に,ネットを通じて,LINNETに布などの注文をしてくれたお客様でした.でもまさか,13歳の男の子だとは想像もしていませんでした.

手紙には,「男の子としてはおかしいかもしれないけど,手作りするのが好きなんだ」と書かれていました。それから「ぼくの名前はリトアニアの名前なんだよ」とも。

それでお返事を書きました。絵や作品がとても素敵でおどろいたこと。LINNETでは男性の作家さんの作品も扱ったりしていて、男の子で手作りや縫い物が好きなのは,全然おかしくないと思うこと。リトアニアは、リネンの産地として日本ではとても有名だけれど,ベジャス君はリトアニアに行ったことがあるの?などなど.

するとまた返事が来て、「リトアニアには家族で行ったことがあるよ.それがすごく変な用事で行ったんだけど,,,おじいちゃんの歯医者さんに行くのが目的だったんだよ」「リトアニアでは,親戚が,戦争で傷んだアパートにまだ住んでいて、心が痛かった.でも田舎の親戚の家は農家で、広い牧場や畑があって,すごくたのしかったよ」

そして,すてきな絵や手縫いの作品が同封されていました.

こんなふうに,ベジャスとの手紙のやりとりが始まりました.

ベジャスはとても聡明な男の子.13歳らしく,あどけなく学校のことや,妹のことなどを話してくれたりもしますが、いろいろなことを彼なりに考えているようです。

ベジャスは,カトリック系の学校に通っているそうです.学校で習う神学の授業には,いろいろと考えることもあるらしく,ある時はわたしに,「こんなことを聞くのは良いかわからないけれど,まゆみさん(ベジャスは日本のまんがも大好きで、わたしのことをちゃんと日本風にさん付けで呼んでくれるのです)は,どんな宗教を信じていますか?ぼくはカトリックの学校に行っているのだけれど,まだどんな神様を信じたらいいかわからない」と書いていました.

それでわたしは,こんなふうに返事を書きました.

「わたしはプロテスタントの学校に通っていたけれど,キリスト教徒ってわけではないんだ.日本の家はそれぞれ仏教のお寺に属してもいるから、その意味では、生まれながらの仏教徒だけど,近所には大きくて古い神社もあって,大切な儀式は神社にたのんだり,毎年おまいりにも行くんだよ.日本では,仏教よりも,神社の方が古くて、神社には「八百万の神々」っていう考え方があるんだよ.つまり木にも草にも石にも,トイレにさえも,自然界のどこにも神様がいるっていう考え方なのよ.だから,日本では仏様も,イエスキリストも,みんなが大切にするのは「八百万の神々」のひとつだという気持ちが根底にあるからじゃないかな。こんな考え方、ベジャスの学校の神父さんが聞いたら、怒るかもしれないけど,私は、これは日本のすごくいい所だと思ってます.反社会的なカルト宗教でさえなければ,日本では少なくとも宗教をめぐって戦うとか,そういうことは起こらないのよ.」

ベジャスは、手塚治虫の「ブッダ」なども読んでいて,最近ではますます日本に興味をもっているようです.ベジャスが特に日本ですごいと思っているのはマンガで,手塚治虫などの作品は、日本のマンガにしかない深い内容があると感じているよう.

ベジャスは書いています.「縫い物は、ただひたすら縫ってるときが好きで、とっても楽しい」13歳なのに手縫いの作品をどんどん仕上げるのですから、本当に縫うのが好きなのでしょう.そしてベジャスは、お話を作ることや,絵を描くことが好きで、そして今はマンガを描いてみたくてたまらないようです.ベジャスが考えているマンガのストーリーを教えてくれました.それはとても悲しい物語でした.

どうして、こんなにベジャス君と何度も手紙のやりとりをするほど、友達になったのか、考えてみると、ベジャス君は,私の子どもの頃にとても似ているからかなと思いました。私はベジャスのお母さんと同世代なので、ときには年上の大人としての考えも伝えたりもしますが,ベジャスの年頃だったときの自分の気持ちを、今もわりとはっきりと覚えています。

わたしが大好きなベジャスの絵のひとつは,うさぎのぬいぐるみの絵.Forlorn Bunny(ひとりぼっちのうさぎ)と書かれています.Forlorn Bunnyは,英語でこのような言い方があるようですが,たぶん野うさぎは冬も冬眠しないので,森の中で他の動物が眠ってしまっても,じぶんだけ残っている、ということからforlorn=取り残された こんなふうに言われるようになったのかなと思っています。

ベジャスの絵は,夕暮れ時に窓辺に座っているぬいぐるみのうさぎが「ひとりぼっち」な状態でいるように見えて、そこに物語があるような気がしてきました.ベジャスには、このうさぎが寂しい理由をお話にしてみたら?とも言ってみているのですが,もしかしたらベジャスは,少年期の心のどこかで,この世界にかならずよこたわっている「孤独感」に気づき始めているのかもしれないと思います.

ふしぎなご縁の,年の離れた友人ベジャスのかわいい作品を,明日7/10から7/24まで、LINNETで展示します.もちろんベジャスにも了解を得ました.もしご来店いただけたら,ぜひ、ベジャス君にメッセージをお願いします.

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* イギリスの野の花えほん

2010/07/03 | Filed under アート, , | Tags .

「野の花えほん 秋と冬の花」がやっともうすぐ校了になり、今月末の刊行予定です。ここ数ヶ月、作業でほとんどずっと籠っていました。

不器用かもしれませんが、集中して籠る、こういう状態がけっこう好きです。LINNETに出勤するのは月に数回ですが,お客様やいろいろな方にお会いすることで,自分にとっては気分転換になっているようです。

「イギリスの野の花えほん」あすなろ書房

ところでこの春、野の花えほんと同じ版元さんから,野の花えほんのイギリスの友だち,みたいな素敵な本が出ました。「ねこのジンジャー」の作者、シャルロット・ヴォーク作です。わたしも若い頃、イギリスでのステイ中に野草の魅力にとりつかれたので,イギリスの野草はとても懐かしい。

イギリスの野草は,ハコベのように日本と同じものも少しはあるものの,日本にはないものも多いのですが,この「イギリスの野の花えほん」で,ほとんどすべての花が、ちゃんと日本語の名前に訳されています。それといつも思うのですが、日本で翻訳本が出ると、日本版の印刷は原書より美しいことが多いです。この本も、じつはイギリス版を持っていたのですが,見比べるとやっぱり日本の本は,印刷がきれいです。そして,イギリス版はペーパーバックですが,日本語版はちゃんとしたハードカバー。最近、海外の絵本はペーパーバックが激増していて,逆に日本では絵本はハードカバーが基本です。なんだか一昔前と逆転しているな,と思います。

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