Archive for the ‘自然科学’ Category

* フィンランドの森 プチ体験

2014/11/22 | Filed under 動物, 自然科学 | Tags , , .

コルケアサーリの浜辺と森↑
11月の前半、ハンガリーのブダペストと、フィンランドのヘルシンキに行ってきました。主な目的はブダペストでCELC(ヨーロッパのリネン組合)の会議に参加することで、ヘルシンキはおまけ。
ブダペストのことはまた後日書くことにして、今日は、今も頭の中でその風景がキラキラと輝いているヘルシンキの森のことを、記録として書いておきたいと思っています。
わたしは、ヘルシンキに行くのは始めてで、今回はどうしても動物園に行きたいと思っていました。
それで動物園のあるコルケアサーリに行ったのですが、コルケアサーリでもう1つとても良かったのは、動物園の入り口の向かって左側に、遊歩道のあるちょっとした森があって、そこを散歩できたことです。そこは小さな島なので、浜辺もあります。森は、針葉樹と白樺の混じった森で、ところどころ露出した岩盤があったりします。
下鴨神社の糺の森の4~5倍くらいの面積があるような気がしたので、50haくらいでしょうか。端から端までまっすぐ歩いても小一時間はかかります。
森としては、それほど広い訳ではなく、ところどころバス道にも接していますが、フィンランドの森の雰囲気はじゅうぶん感じられます。しかも森を抜けて浜辺に出られるという贅沢さ。
ここがあまりにも気に入ってしまって、3日間、朝の10時ごろから2時ごろまで、通ってしまいました。(11月のヘルシンキでは、2時をすぎると、もう夕方のような感じです)
最初の日は曇り、次の日は霧、そして最後の日は幸運なことに快晴になりました。
森の中は、それはそれは静かで、晴れの日でも他の人とは3時間で4~5組出会っただけ。犬の散歩、ジョギングの人、子供連れの人、、、それが50haくらいの中にいるので、だいたい一人で歩いている状態です。下鴨神社の森だと、11haの場所にいつもおそらくは500~1000人くらいの人が歩いているのですが、この森は静寂そのものです。とくに霧の日は、私のほかに1~2人歩いてる人をちらりと見たくらいで、ほんとうに森の中にひとりぼっち、ということがほとんどでした。
陰鬱とも感じられる霧の日の森と浜辺。それはそれで、美しく、そして少しこわくて寂しかった。
そのとき「霧の中のはりねずみ」を思い出しました。きっとあのハリネズミが歩いた森も、こんなふうに霧につつまれて薄暗く、寂しくてすこしこわくて、友達の家にやっとジャムを届けられた時には、どんなにかうれしかったんだろうなと。。。
そして、そういう「お話」は、こういう寂寥感や自然の中で感じる不安感などを和らげてくれるものだということも実感しました。
打って変わって快晴だったその翌日には、低い位置からさしてくる太陽がまぶしく、空の色がおだやかな海面にうつっていて、息をのむような美しさでした。鳥の声と、静かな波打ち際の音に、心が洗われた。。。
ところで、海は、ほんとうに穏やかで、まるで湖のような気がします。葦も生えてるし、磯の香りもしないし、ほんとに海なのかな?と思って、水をちょっと味見してみると、うーん、淡水とまではいかないけど、全然塩辛くない!川と海の混じった汽水くらいの感じかな?
その疑問は、ホテルに戻ってフロントのフレンドリーな女の子に聞いてみました。(コルケアサーリまでは中央駅から8番乗り場で16番のバスに乗ることを教えてくれたり、帰りのバスの時刻表を出力してくれた親切な人)
彼女によると、海に間違いないけれども、このあたりの海はあまり塩辛くないそうです。とくに、水面が凍る頃になると全然と言っていいほど塩辛くなくなるとのことでした。北のほうの海は塩辛くないというのは知らなかったのですが、鮭のように川で産卵する魚が海と行き来できるのは、北の海の水質(塩分の比率)が川とそれほど違わないせいなのかも、と思ったりしました。
下草はほとんど枯れていましたが、のこぎり草やタンジー、スミレやワイルドストロベリー、木苺などなど、葉っぱからいろいろな多年草がそこにあることがわかりました。夏にここを訪れたら、どんな景色なのでしょう。白樺は緑の葉を茂らせて、いたるところにのこぎり草や木苺などの茂みが、いっせいに花を咲かせているのでしょうか。短い夏が、まるで夢のように美しいのかなと思ったら、その季節にもう一回行ってみたくなってしまいました。
左 のこぎり草が一面、冬越し中  中央 たぶんエルダーベリー。森にいっぱいでした
右 おどり子草は、まだあちこちに咲いていました↑
さて、このヘルシンキの森は、とくに霧の日など、風景がうすいピンクがかって見える気がするのです。写真ではうまく写らないのですが、実際に本当にそう見えます。
じつは、上の浜辺の写真だともう少しよくわかるのですが、砂や石が、ピンクベージュがかっているのですね。どうやらこれは、花崗岩が多いからなのだそうです。
こういう石がよく採れるためか、ヘルシンキの街全体に、ピンクベージュがかった石が多く、建物にも、また道路の石畳にも、この色がたくさんあります。たとえばパリだったら、ベージュの石が近郊で採れるらしくて、全体がベージュ色ですが、ヘルシンキはピンクベージュ。レンガでさえも、ちょっとピンク色の強い色です。
そして、霧のときに特に風景がピンクがかって見える理由は、これは夫の意見なのですが、たぶん空中の細かい水滴に、砂など地面の色が反射しているからなのではと。。。私も、それを聞いて、そうにちがいないという気がしました。
ヘルシンキ市内の石畳。花崗岩が多い↑
はじめてのヘルシンキでは、あとはすこしデパートでおみやげにシナモンロールを買ったり、有名なアカデミア書店で本を見たりしたくらい。雑貨屋さんなどのお店系には結局行かずに終わってしまいました。
とにかく、日のある短い間、3日つづけてこの森を歩いただけで、大大大満足、わざわざヘルシンキに行ってみた甲斐がありました。
(おまけ1)動物園で見たかったのはヘラジカとトナカイでしたが、ヘラジカは飼育されていませんでした。でも、トナカイは見ることができました!!
北の国々では、トナカイはいわゆる家畜で、橇をひいたり、肉を食べたりという感じだそうです。英語でcalibooというと野生のトナカイ、家畜化されたものはreindeerとよばれています。
実物のトナカイは意外とほっそりしていて、でも、やっぱり足が大きくてカンジキみたい。これで雪の中も歩けるんだなと思いました。
ヘルシンキのコルケアサーリ動物園は、それぞれの動物がいるスペースが大きく、トナカイのいる場所も2つに分かれています。野生だと山のこっち側とあっち側みたいなテリトリーがあるのかもしれませんが、その気分をすこしでも味わえるように、という配慮なのかもしれません。大きな角をもったオスと、何頭かのメスがグループで移動していました。
そして私が近づいていくと、最初は逃げていたのですが、だんだん、興味をもってこちらに近づいてきます。なんていうか、トナカイが普通に暮らしている所に、人間が現れたみたいな感じです。シーズンオフのせいもあるのですが、入園者も数えるほどしかいなくて、動物の方が数が多いくらいなので、逆に見られているような気持ちになる動物園でした。

(おまけ2)ブダペストで、こんな↑まだら模様のカラスを見たのですが、同じのがヘルシンキにも。ヘルシンキで図鑑を買って調べてみると、読めないけど学名から、日本にもいる「ハシボソガラス」と同種のようです。

ハシボソガラスはうちの近所にもいますが、くちばしが細っそりしてるかわりに鳴き声がわりとガラガラ声でガーガーと聞こえるカラスです。

同じようなカラスは、フランスなど西ヨーロッパでは見た記憶がないので、ヨーロッパでも東寄りのほうに多いのでしょうか。

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* 「連続体」は、ほんとにあるの?

2014/10/13 | Filed under 自然科学 | Tags .

集合論の本、というか「無限に魅入られた天才数学者たち」(アミール・D・アクゼル 青木薫訳 早川書房)を読み終わりました。といっても、2回目。この本は、とてもわかりやすいし、面白く読めるように書かれていて、あともう2回くらい読んだら、もっと頭に入りそうです。初版は2002年ということなので、もうすこし早く手にしていたら、と思いました。

「実無限って。。。」とか考えながら眠りにつくと、すごく心地よい気持ちで寝入ることができるのですが、そういう私は相当変というか、やっぱり頭の中が非日常な方へ飛んで行ってしまう体質なんでしょうか。女性は、もっと地に足のついた精神をもつ方が大半なので、私は男っぽいのかなと思うこともあります。

でも、この「無限に魅入られた天才数学者たち」を翻訳した青木薫さんも女性です。この方は、理数系を専門とされる翻訳者で、本当にすごい方。ご自身も理論物理専攻の理学博士で、専門的知識がある上、この方の訳した本を、けっこうたくさん読んでいるけど(有名なものでは、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」とか。理論物理系の本もたくさん)、ほんとうに読みやすく訳されている。。。専門知識だけではなくて、日本語のセンスも良くて、そしてきっと心がこまやかな方なんじゃないかと思います。青木さんの訳書をまだあまり見かけなかった私の20代のころ、自然科学系の翻訳書は、訳のために読みづらさを感じることがどうしても多かった気がします。青木さんの訳のように、日本語としても、また思考の流れとしても全然つっかからずに読める自然科学書があるというのは、ほんとに感動的です。

また、この本は、青木さんの「訳者あとがき」がとても良かった。

この本のラストで、著者は、カントールの考えていた「連続体」←(たとえば、私たちが小学校で習った数直線など)もの は、実在するのだろうか?という問いかけを投げかけているのですが、青木さんは、それを「一般人にとって興味があるのは、「連続体は物理的実在か?」という問いではないだろうか」と解説されています。たぶん、ほとんどの読者は、ラストに同じ問いかけを心に抱いて本を閉じようとしているので、ほんとうに読者の心に沿っていると思う。

つまり、無理数が無数につまった数直線というものが、この世界の中に物質的にほんとうにあるのかしら?という問いかけなんだけど。この問いかけがすごく意味深なものに受け取れるのは、量子力学で、今のところ物質の最小単位である(とされる)電子や光子などの「量子」は、波なのか粒なのか、正体がはっきりわからないものの、1個、2個と数えられる、「離散的」な性質を持っていることがわかってきた(とされている)から。つまり、そこに「整数」が見えるという訳です。

その昔、世界は美しい整数の比で現されると信じてたピタゴラスは、無理数の存在を認めようとしなかったと言われています。でも、じつは、一辺が1の正方形の対角線は√2という無理数で、正方形みたいなシンプルな形にさえも無理数が含まれているとしたら、世界は無理数でできていると考えても全然おかしくなかったわけでした。

けれども、最近の物理学の発見でいくと、物質の最小単位は、整数で数えられるもので、世界が「連続体」に見えるのは、その最小単位があまりにも小さいからだと。。。デジタル画像の解像度が上がるほど、ジャギジャギが少なくなって画像がきれいになるのと同じことで。

最近のこの説をピタゴラスが聞いたら、きっと、泣いて喜ぶでしょうね。

古代ギリシャの人たちは、図形をコンパスと定規だけで作図し、その2つの道具で作図できないものは「存在しない」とみなしていたそうです。コンパスと定規では無理でも、ほかの道具を使えば作図できるものも、現代にはたくさんあるわけですが、古代ギリシャ人が作図可能かどうかにこだわったのは、ひとえに「存在しないもの」について語ることの危険を自覚していたからとも言われています。

ただ、作図ができること=物質として存在する、と言えるのかどうかという疑問もあります。

もし、やっぱり連続体は実在しない、と仮定したとして、たとえば円とか正方形は、作図はできますが、物質の世界には本当にあると呼べるのでしょうか?作図したときに、限りなく円に近い、ちょっといびつな形とか楕円とかはあるかもしれないし、限りなく正方形に近い四角形というのは、作図したりもできるかもしれませんが、完全に正確な円とか正方形みたいな図形が、人間の頭の中だけでなく、物質の世界に存在してるのかなあ?「連続体」がないとしたら、円も正方形も、正三角形も、とにかくそういう図形としての連続体も、実は、世界には「実在しない」のかも。

でも、青木さんは、だからといって数学はちっとも困らない、とも。つまり、数学の純粋な抽象的な理論は、物質世界とは違う所で、じゅうぶん成り立つものだから、、、ということなのでしょう。でも同時に、「物理的世界において、数学はなぜこれほどまでに有効なのか?」というウィグナーの問いかけを紹介されています。

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* 集合論って?

2014/10/11 | Filed under 自然科学 | Tags .

この間、編集者の人と数学の話していて、「集合」と「確率」って嫌いだったわー!という話になりました。私も、ほんとうに。とくに、集合の方がつまらなかった。

でも、最近になって知ったのですが、集合論は、結局、「無限」というアイデアと深くつながってるんですよね。無限について考えてて精神を病んだ、カントールという19世紀の後半ごろドイツで研究していた数学者が、今の集合論の基礎を作ったのだとか。

思うのですが、数学も、そういう文脈とともに教えてもらえればねー。。。だって、集合の授業の時、カントールのカの字もなかったですから。

で、今、無限とかカントールの本を、気分転換に読んだりしてるのですが、とにかく、カントールは、まず数を自然数とか実数とか、それぞれの集合に分けて、それぞれは無限だけど、「集合」というある種完結したものとして扱い、無限の度合いというか、濃度がちがうんじゃないかと考えたと。

で、整数に有理数を加えた数の集合は、1番目、2番目、とか大きさで並べて順番に数えていける無限です、と。これを「離散的な」数と考えたようですね。それぞれの数が、1つ1つの位置をきっちり占めて、それぞれの位置に置かれているという状態です。

でも、無理数を加えた実数全体の無限は、無理数なんて無限につづく少数点以下で、1つ1つの大きさ、つまり数直線上の位置が決められないから、順番に数えたりもできないわけですよね。でも、とにかくぎっしりと数直線の中に無限に連続して存在している「連続体」だから、自然数と有理数の無限よりもずっと大きいというか、濃度が濃いというか、とにかく無限の程度がちがうでしょう、と考えたそうなのです。言ってみれば、無理数をふくめた「連続体」の無限は、それ自体が1つの存在であって、その中のどれか1点、1点に着目したら、そこに数が現れるというか、そんな感じなのかも。

カントールが考えた、こういう無限を「実無限」と呼んで、ただ単に終わりがないという日常的な意味の無限を、数学では「可能無限」とよぶそうです。つまり、可能無限では、えんえんと続いてて終わりはないよという動的な状態であるのに比べて、実無限の方は、無限とわかっているけど、それでとりあえず完結している状態というか、閉じた無限というような意味を持たせたようなんですね。たしかに、無限の程度を比べたりするのには、それぞれがいちおう完結しているものとして見ないと、比べられないですものね。

で、「無限」(つまり実無限)にヘブライ文字の最初のアルファベットである、アレフという字をあてて、アレフと呼んだと。そして、その無限の濃度、程度によってアレフ0とかアレフ1とか、番号をつけたかったんだって。

そしてそして、常識で考えたら、整数+有理数の数えられるけど終わりがないタイプの無限がアレフ0なら、次は無理数も含めた実数全体の無限が来てアレフ1になりそうじゃない?カントールもそう思って、それを証明したかったんだけど、それがどうしても出来なかったと。。。カントールが証明したかったこの仮説は、「連続体仮説」とよばれるそうです。

そして、「連続体仮説」が証明できないイライラと、そういう無限とか無限の大きさなんてことを論じること自体に反感をもつ、元恩師でもあるクロネッカーという数学者にいじめられたことが重なって、鬱の発作を断続的にくり返すようになったそうです。

カントールがしようとしたことは、じつは後で、それは証明できないってことが証明されたんだとか。

無限の濃度を決めるとか、それを順番に並べるとかっていうのは、本来的には「終わりがないこと」であるはずの「無限」を、外から俯瞰して眺めて、比較しなくちゃいけないはずなんです。それは、結局できないということが論理的に証明されて、数学者もショックを受けたけど、それもカントールが世を去った後のお話。

つまり、カントールがしようとしたことは、無限を云々しようという「神の領域」への挑戦だったということになるのでしょうか。(っていうか、どうして無限の階層をそんなに決めたくなったのでしょうね。)

ほとんど数学とは思えない、哲学のようなお話ですが、文系のわたしたちは、こういう話なら大好きなのに。数学の授業で出て来た集合論の退屈さを思い出すと、きっと数学の先生は、ややこしい数式を解いたりする方がワクワクして、こんな話が根底にある集合論が、実際あんまり好きではなかったのか。それとも、わたしたち生徒がアホすぎると思っていて、語る気になれなかったのか。

でもそれを批判もできない。。わたしも実は、大学の時、高校生の女の子の家庭教師のバイトをしていて、数学もなぜか一緒にやってたんです。(以前、その話を、いわゆるリケジョ(理系の専門職についている)の友人に話したら、ブフッ!って笑われて、「えっ、その子大学どこ入ったん?!」ってつっこまれた。。。えーとそれが、エスカレーター式の女子校に行ってる子でしたので、学校でなんとか点をとっていれば、自動的に上に上がれたんですね。だから、数学を教えてたというよりも、一緒に勉強してたというのに近いんだけど、、、)

で、なんちゃって数学家庭教師体験を思い出しても、数式とか具体的な問題があれば、具体的に達成感が出やすいですが、こんな集合論みたいな哲学みたいな話は、そういうわかりやすい楽しさがないから、教えにくいとは思います。

集合論、まだよくわからないこともあるのですが、(たとえば「集積点」という意味がまだよくわからない、、、)とりあえず、今思ったことを、またまた備忘録として。

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* 森羅万象のなかに、それはあるの?

2014/05/03 | Filed under 自然科学 | Tags .

たとえば、ペンペン草の花の花びらは、4枚と決まっているし、いちごの葉っぱは、3枚が1組。
目は2つ、鼻と口は1つ。というふうに、決まっています。

これを数えているのは人の頭ですが、歴然と、自然の中のルールに、やっぱり「数」はあるのかな、と思いつつ、「数の法則」が、ほんとうに森羅万象の中にあるものなのか、それとも、人間の頭の中にだけ、あるものなのか、そういうことを、ときどき、ぼんやりと考えてしまいます。

この前の「フィボナッチ数列」。

これも、植物の成長点の細胞の殖え方がこの数列の法則と関係があって、だから、ヒマワリの花の真ん中部分とか、松ぼっくりは、フィボナッチ数列の法則で、形作られているという説明が
よくされます。

ただ、たとえば自分がヒマワリの細胞だったとしたら、最初からフィボナッチ数列になろう、と思って成長するのではなくて、細胞一個一個が、よいしょ、よいしょと増えていったら、結果的にフィボナッチ数列になったということだと思います。

つまり、細胞とか生き物が、成長しながら、自分のコピーを生み出して行こうとしたときに、
自然に、今作ったものと同じものをもう一個ふやして、
次は、前にあったものを両方足して、またふやして、となるので、
森羅万象の中に、フィボナッチ数があるのが不思議。というより、森羅万象が、フィボナッチ数を生み出していると言った方がいいのかも。。。
そういうふうに考えると、それが当たり前のような気もしてきます。

また、よく六角形のハチの巣について、六角形が、一番、お互いを仕切る壁の面積が少なく、最低の労力で巣部屋をふやしていける合理的な形であり、ハチが本能的にその形を選択しているのは、すごいと言われることもあります。
ただ、アシナガバチが巣を作っているのを観察すると、ハチは、最初から六角形を作っているのではないみたい
最初は、一つのまるい筒型の部屋を作り、それとほとんど同じ大きさのもう一つの部屋を、となりにくっつけます。そして、その二つの真ん中部分の壁を利用して、また同じ大きさの部屋を作ります。
その次はまたとなりに。。。というふうに、どんどんつなげていくと、上や左右から押されているうち、だんだん一つ一つの部屋の間の壁がまっすぐになり、結果的に、六角形になっていくのです。
それは、ハチの巣の一番はしっこを見ると、よくわかります。押されるとなりの部屋がないときには、
部屋は丸いですから。

←うちのベランダにできた巣。

←「ハチのおかあさん」小川宏著 新日本出版社 より



部屋の大きさは、自分の足で抱きかかえられるような感じの大きさに作っているように見えます。
大きさの個体差はほとんどないので、ほぼ同じ大きさの部屋が並び、そして、たしかに、最小の労力でいっぱい部屋をつなげようとしてることは確かですが、厳密に、六角形を作るぞ!というレシピは、ハチの中にはないと思うのです。
そこに六角形を作り出しているのは、重力や圧力などの物理法則で、そして、その形をそこにみつけているのは、人間の頭なのですよね。

物理法則で押していけば、きれいな六角形になるくらい、バランスよく同じ大きさの部屋を並べているという点は、すごいと思います。

円をバランス良く並べると、そこに六角形がうまれる。。。

フィボナッチ数列では、まずそこに1があって、それを複製するとまた1がうまれる。つぎは、最初の1と、つぎの1を合わせると、2がうまれる。そして、その次には、その2と、その前にあった1を合わせて、3がうまれる。。。

1つのクォークが、別のクォークとくっついて、3つ合わさると陽子ができる。。。陽子1つと中性子1つがくっついて、それを、1単位の電子がとりかこむと、一番基本の元素、水素がうまれる。。。

こんなふうにして、順番に数から数が、ひとつの形から、もう一つの形が、一つの素粒子から、元素が、物質が、そして命が、うまれていきます。

最初から、全部が法則として、自明の理として存在していて、この森羅万象の中の物質やいきものがそれに向かっていったのではなくて。1つ1つが、次から次へと、うみだされていった結果、私たちが見ようとしている法則が、形作られていったのかな。

宇宙ができる前、「無」だった、と言われます。物理の考え方では、ほんとうの無ではなくて、エネルギーだけがあって、何も起きていない状態だったと考えるそうです。完全な無ではないのだとしたら、つまり全体として、「1」の状態ともいえて、その何も起きていない状態から、何らかの運動が突然起きたことで、1とは別の1がうまれて、それが2になった。。。そんなふうにして、連綿とここまで続いて来たのかな。


そう考えると、それを眺めようとしている、人間の脳の方が不思議なような気もして来ます。

また、訳のわからないことを書いてしまいましたが、これも、自分のための備忘録として。

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* フィボナッチ数列の影ができるところ

2014/04/27 | Filed under 自然科学 | Tags .

ヒマワリをはじめ、ハルジオン、マーガレットなど、キク科の花のまんなかの部分を形作っている、花びらのない小さな花(筒状花とよばれています)は、うずまきのようならせんのような列を作って並んでいます。
この並び方と、「フィボナッチ数列」という数列は、リンクしています。

フィボナッチ数列は、イタリアのフィボナッチという数学者が発見したと言われています。
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89…のように、前の2つの数の合計が、次の数になるという
シンプルな数列です。
キク科の花のまんなか部分の列が何本あるか数えると、列が40本以下の小さな花の場合、基本的に、
フィボナッチ数列に出て来る数になると言われています。
(列の数が多い、大きなヒマワリになると、途中にできたすきまに列が増えて、本数に誤差が出るようです。)
詳しく知りたい方には、こちらがおすすめ→大阪大学の近藤滋先生のHP

フィボナッチ数列というのは、かんたんそうで奥が深く、たとえば、ヒマワリだけでなく、貝のうずまきのできかたなどにも、この数列が関係あるのです。

で、ふと思いついたのは、ふつうのフィボナッチ数列は、もちろん、「自然数」の中の数列だけど、
これを複素数にまで広げたら、どんなグラフになるのかな?
フィボナッチ数列のグラフは、自然数の部分では、最初はゆるやかで、後は右肩上がりにふえる単純な曲線を描きます。でも、この性質は、複素平面でも同じなのかしら。。。

で、複素数に展開してグラフにしてみようと思ったのですが、なにしろ高1のときに、「虚数i」の登場で
授業に落ちこぼれた過去のある私、
フィボナッチ数列を複素数にする計算をやろうとしたけど、ぜんぜん、できません。
前の数2つの合計が次の数になるというだけの、単純な数列だと思ったのに。
複素数でも、ただ合計して並べればいいと思ったのに〜〜〜(T_T)

それで、やぶれかぶれでネット検索してみたら、なんと、ちゃんとそれを展開して
グラフにしてくれている方のブログがある〜〜〜!!
しかも、2次元のグラフだけじゃなくて、3Dにも展開してある〜〜〜!!

で、このグラフを見たとたん、なんだか背筋がぞくっとなりました。
というのは、まず、自然数、つまりふつうのプラスの数だけではなく、負の数もふくむ整数としてフィボナッチ数列を展開すると、数が多くなったり少なくなったり増減をはじめて、波動のように振動(グラフとして)するようになります。
そして、さらに複素平面のグラフになると、それがらせんを描いています。そしてそれを、3Dでみると、貝のようなうずまきが。。。

まるで、複素平面に、現実世界のフィボナッチ数列で起きる現象の影ができているみたい。

あああ〜〜こんな数式展開が全部理解できて、じぶんで操作できたら、楽しいだろうな。(悲)

複素数というのは、虚数iを含む数と実数との足し算でできている数で、複素平面は、それを座標にしたものということになります。横軸を実数軸にして、縦軸を虚数軸にしたのが、複素平面なのです。
むかし落ちこぼれてから、今もあまり理解できてませんが、「虚数」の世界ってほんと、なんなんでしょう。
このわけのわからない虚数や複素数を使うと、電子の動きとか、波動とか、いろんなものを計算するのに
便利なので、実用的によく使われていると。。。(電流の流れを計算するとき、iを使うと簡単に微分できるとか、、)

それに、ここ2〜3年ハマっている宇宙論の中でも、時間を虚数で計算する、とか、よく出てきます。
物理の世界で、いろいろ理論をあやつるには、技術的に便利なものらしいのですね。

つまり、日常的に使っているさまざまな技術に、じつはすごく使われているにも関わらず、よく意味はわかりません。
でも、つねに虚数と複素数が気になってしまうのは、それが何かを現しているような気持ちを、完全に払いのけることができないからだと思います。
高校のとき、落ちこぼれた原因も、それを考えて立ち止まってしまったからだというのに。
(数学の能力の高い人はよく、複素数なんて、深く考えないで、道具だと思えばいい、とかおっしゃるのですが)

虚数の世界とか、複素平面って、やっぱり、目に見える現実の、その影みたいなものなのかしら?

個人的には、しかもただ何となくそう思うっていうだけなのですが、複素平面には3次元の射影のような所がありますよね。なんていうか、数をすべて複素数として扱うと、虚部は面的なため、すでに2D的な成分を持っていて、それに実部が加わるので合計で3Dになるというか。ただ、虚部が面というのも、私が勝手に思ってるだけで、iは平方根であって平方数ではないわけなんですけれど、、、

あー何言ってるのか、自分でもわからなくなってきた。(数学を専門にされている方が読んだら、プッと吹き出しちゃいそうな勘違いかも)

ちょっと飛躍というか、意味をもたせすぎかもしれません。
つまり、数学の世界に主観を持ち込んでしまいましたが、
こんなふうにつらつら考えたことも、しばらくたつと忘れてしまうので、
備忘録として、そのまま書いてしまいました。

訳のわからない文章で、ここまで読んでくださった方、申し訳ありません。

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