Archive for February 26th, 2011

* Black Potatoes

2011/02/26 | Filed under | Tags .

最近、絵本や子供向けの読み物ばかり読んでしまうのですが、この間、Susan Campbell Bartolettiという人の書いた「Black Potatoes」という本を読みました。

1845〜1850年に、アイルランドで起きた大飢饉のことを書いた、ジュニア向けのドキュメンタリー本です。

「Black Potatoes」(黒いじゃがいも)というのは、1845年に、アイルランドの農民たちが主食にしているじゃがいもが 菌による病気にかかり、ほとんど一晩で真っ黒に変色して腐るという状態になったことから、その飢饉が起きたため、このように呼ばれているのだそうです。

じぶんのための ノートも兼ねて、この本の内容を箇条書きにしてみます。

*1845年は夏頃から天候が不順で、雨が多かった。秋の収穫時期、畑に植えてあるじゃがいも、収穫を終えて貯蔵されているじゃがいものすべてが、一晩で黒く変色して腐ってしまった。この減少は、1845年1849年まで、毎年起きた。当時は原因がわからず、妖精のしわざなどともささやかれたけれども、今では、Phythophthora infestansという菌が、南アメリカから輸入された鶏糞系の肥料から移ったのではないかと考えられている。
当時、アイルランドの農民たちは、食べ物のほとんどをじゃがいもに頼っていたので、大飢饉が起きた。

*当時、アイルランド全体はイギリスの統治下にあり(現在は北アイルランドはUnited Kingdomに所属しているが、南アイルランドは独立している)アイルランドの土地の多くは、イギリス人が領有していて、農民には多額の賃料が課せられていた。賃料が払えないと、土地を追い出されて 家族ごと放浪の季節労働者になってしまった。飢饉が起きている間も、年貢の取り立てはやむことがなく、大量の小作民が流浪の民になってしまった。

*イギリス政府は救済のために、急遽アメリカから「インディアンコーン」というとうもろこしを輸入したけれど、とても固くて人間が普通に食べられる状態でなく、このコーンのせいでも多数の死者が出た。

*政府の対策としては 地主などが出資して作られている「Poor House」という一種の収容所に貧民を収容した。そこでは貧しい人に わずかな食料を供給するのとひきかえに、一日12時間以上の過酷な労働を強いたため、亡くなる人もあとをたたなかった。

*当時、イギリスの経済に対する考え方は、「Lesse Faire(Let it do)」(政府が介入しない自由経済を尊ぶ考え方)の思想が中心にあったので、アイルランドの窮状に対しての政府の動きは遅かった。けれども、民間レベルでのチャリティ活動が高まってきて、一番飢饉がひどい時期には、政府主導で「Soup Kitchen」という、スープとパンを1日一回ずつサービスする炊き出しをした。けれども、すこし飢饉がおさまる傾向が見えると、早々と炊き出しは終了。

*農民の主食であるじゃがいもが 腐って駄目になったために起きた飢饉だったけれども、飢饉の間、麦などの他の作物は豊作で、それらは、経済作物として、イギリスなどに運ばれていた。このように順調に収穫できた麦、大麦が飢饉にさらされている人々に供給されることはなかった。(だから、江戸時代に日本でたびたび起こった「凶作による飢饉」とは 少し性格がちがう。)

*飢饉による餓死のほか、腸チフスやコレラなどが蔓延し、飢餓で抵抗力を失った人たちは、大量死した。

*じゃがいもが食べられないので、人々はお金に変えられるものは何でもお金に変えて、食べ物を買ったけれども、追いつかなかった。それで、土地の賃料が払えなくなって、追い出されて すべての財産を失う前に、残ったわずかのなけなしのお金でもって、アメリカへ移民する人が大量に出た。

*アイルランドの貧しい人たちは、三等船室でアメリカに旅をした。衛生状態、食べ物も悪く、もともと飢饉で体が弱り、伝染病が流行っていた所から旅に出た人たちは、多いときは20%くらいが、アメリカに着くまでに亡くなった。

*飢饉にくるしんだまずしい人達のほとんどは、アイルランド語しか話せず、また文盲率も高かった。その人たちが、アイルランドを去ってから、アイルランドでは多くの古い伝承なども忘れられ、またアイルランド語を話す人の数が激減した。

*アメリカに移民したアイルランド系の人たちは、底辺の労働者として、鉄道の建設など、アメリカ合衆国のインフラ作りに大量の労働力を提供した。

*現在、アイルランドの人口は、「黒いじゃがいも」飢饉の起きる半分程度しかいない状態。

だいたい要約するとこんな感じです。

移民をするとき、一族の中で別れ別れになるということも多く、たとえば10代の息子一人を残し、未亡人の母親が幼い子供達を連れてアメリカに移住するケースもあったそうです。

残る人びとは、移民する人と もう生涯会えなくなるという意味をこめて、お葬式と同じような方法で送る会をしたそうです。それは、涙とともに、 みんなで踊って 歌って、という会でした。そして、去る人が出発する際、残る人は、ギリギリ行ける限りの所まで 歩いて見送ったのだそうです。

それから、アイルランドの窮状が伝わると、1846年ごろから、アメリカからもアイルランド系の人などが、祖国にたくさんの寄付を送るなど、寄付が届いたそうですが、その中で、1838年にアメリカで大きな迫害にあった先住民、チェロキー族の人達(Trail of tears, 涙の道 で有名な オクラホマへの強制移住でたくさんの人が亡くなった)からも、飢饉で苦しむアイルランドの人へ、寄付が贈られたのだそうです。

この本の本文最後のページ (p172)には 以下のように書かれています。

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アメリカに移住した多くのアイルランド人は、決して故郷を忘れようとせず、またその民族意識とプライドをもちつづけたのでした。
飢饉のときに、両親に連れられ移民した、ヴァージニア州リッチモンドに住むある男性は、言いました。

「私がアイルランドを去ったとき、まだ赤ん坊でした。アイルランド人たちは、とても大変なおもいをしたのです。でも、私の母はいつも、アイルランドの青い山々や、湖のことを話し、それらを愛し続けていました。家の中で、母はいつもアイルランドの歌を歌っていたものです」

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* どうぶつの絵かきはじめたら

2011/02/26 | Filed under 動物 | Tags .

「野の花えほん」のシリーズのつぎの本は 身近などうぶつ(と 小鳥、身近な生き物を少しずつ)の本を作らせていただけることになり、去年の夏ごろから 文章やラフの作業をしてきて、この間から すこしずつ 絵を描き始めました。

描いていると すごく感情移入をしてしまいます。犬のページなど、忠犬ハチ公の原稿を書いているだけでも、泣けてきます。淡々と ハチのエピソードを短く紹介しているだけなのですが。淡々とした その事実に すごく大きな何かがつまっていて、泣かされてしまうのです。

つきのわぐま、ひぐまの所では、小さくてかわいらしい絵ながら、マタギやアイヌのくま猟のイメージ画。

正直のところ、猟のイメージというのは、あまり描きたくはないのですが、でも、祖先にとってのくま猟は、生活であり 自然の一部だと感じます。この本では、動物の生物学的な情報だけではなくて、人との関わりや文化的な部分にも紙幅のゆるすかぎり 触れたいので、やはり描かないと。と思います。

以前「かやねずみ」を描くために、上野動物園に行きました。雨の日の動物園、とてもしずかでした。

上野動物園の入り口近くにいたのが、日本リス。日本リスは、京都の動物園にもいるので、ときどき会いに行きます。夏毛のときは手足がオレンジ色で、それはそれは美しい動物。ペットのシマリスにくらべて、日本リスは少し大きいし、筋肉質な感じもするので、可愛く描けるかな・・・と心配していたのですが、ほんものの日本リスをひとめ見たとたん、その美しさにすっかりめざめてしまって、いま、わたしのなかで「もっとも絵になる動物」のひとつが、日本リスです。

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