Archive for the ‘本’ Category

* イギリスの野の花えほん

2010/07/03 | Filed under アート, , | Tags .

「野の花えほん 秋と冬の花」がやっともうすぐ校了になり、今月末の刊行予定です。ここ数ヶ月、作業でほとんどずっと籠っていました。

不器用かもしれませんが、集中して籠る、こういう状態がけっこう好きです。LINNETに出勤するのは月に数回ですが,お客様やいろいろな方にお会いすることで,自分にとっては気分転換になっているようです。

「イギリスの野の花えほん」あすなろ書房

ところでこの春、野の花えほんと同じ版元さんから,野の花えほんのイギリスの友だち,みたいな素敵な本が出ました。「ねこのジンジャー」の作者、シャルロット・ヴォーク作です。わたしも若い頃、イギリスでのステイ中に野草の魅力にとりつかれたので,イギリスの野草はとても懐かしい。

イギリスの野草は,ハコベのように日本と同じものも少しはあるものの,日本にはないものも多いのですが,この「イギリスの野の花えほん」で,ほとんどすべての花が、ちゃんと日本語の名前に訳されています。それといつも思うのですが、日本で翻訳本が出ると、日本版の印刷は原書より美しいことが多いです。この本も、じつはイギリス版を持っていたのですが,見比べるとやっぱり日本の本は,印刷がきれいです。そして,イギリス版はペーパーバックですが,日本語版はちゃんとしたハードカバー。最近、海外の絵本はペーパーバックが激増していて,逆に日本では絵本はハードカバーが基本です。なんだか一昔前と逆転しているな,と思います。

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* エミリ・ディキンスンのすみれ

2010/02/06 | Filed under , | Tags , .

MOE2010年3月号のBook in Bookの話題のつづきです・・・

P68と69のすみれの絵のページは,綴じてあるのを取り外せば,一枚の絵になります。まんなかに,ちょっとホッチキスの穴はのこりますが,詩の入っている絵を,ピンとかで壁にはったりして,眺めていただけるかも,と思いながら作りました。

P69の詩に出て来る,「紫色の仕事」。ディキンスンにとって「紫色の仕事」は,「詩作」そのものだったのだと思います。

そして,わたしは,人の数だけ,その人にとっての「紫色の仕事」があると思っています。

たくさんのすみれが,それぞれの紫色の花を咲かせている野原の絵を描いたのは,そうやって,めいめいの人が,ディキンスンのことばで言う「紫色の仕事」をして生きている姿を,そこにかさねて描いてみたかったから。

それにしても,今回ご紹介した6篇の詩のなかで,一番訳でなやんだのは,この詩 (F564)でした。

この詩をはじめて読んだとき,「すみれ」だと思いました。でも,ちょっと難解な詩です。

「背をのばしたあとで,姿をかくす」 「夜は,つぐなってくれない」って,いったい何のことでしょうか。

直感としてイメージしたのは,一年を通してのすみれの様子でした。園芸好き,植物好きの方なら,よくご存知だと思いますが,すみれは,春に花を咲かせたあと,夏頃,葉を大きく伸ばして,花の時期よりもうんと背が高く,大きな株になります。そして,やがて葉が落ちて,根だけで休眠状態になって冬を越します。「夜がつぐなってくれない」というのは,もう何度夜がきても,つぼみはできないということなのじゃないかなと思いました。

「紫色の仕事」は すみれが花を咲かせるということ。。。

そのあと,草の下にある部屋にひきこもる,というのは,根だけで冬越しする「休眠」で,それを「わたしたち」と重ねているのは,「わたしたち」が死んだ後,お墓に入るということになぞらえているのだと思います。

春になれば,まためざめるはずのすみれの休眠状態と,わたしたちの「死」を重ねるのは,キリスト教的な感覚かもしれません。キリスト教では,人の死は「休眠状態」と同じで,みんな最後の審判の日にはよみがえって,天国に行けるかどうかはその日に決まるのです。お墓の中で眠るのは,それまでの間だという考え方が,あるからなのでは。

季節ごとのすみれの生態や,「多年草」であることを,冷静な観察者の目も持っていたディキンスンは,熟知していたのではないかと,わたしには思えるのです。

「わきまえて」これは,とても悩んだことばでした。原詩では「Worthily」,じつは,前の連の,夜が「つぐなう」の語は,recompenseという語が使われていて,worthilyと意識してセットにされていると思います。recompenseには「つぐなう,あがなう」という意味の他「報酬により報いる」という実際的な意味もあり,またworthilyも「相応の報酬を得られる」「ふさわしく」という意味があり,その他「殊勝に」「健気に」「分をわきまえる」という意味もあります。つまり,自分の行動に対し等価値の報いを期待するという意味と,神様に与えられた,自分の分を全うするという意味との両面の意味が含まれるのです。

ディキンスンの草稿では,その他ここの異稿としてprivatelyという語もあったようです。

そこで,Worthilyの訳語には,ほかにも,いろんな語を考えてもいたのです。「日本語としての自然さを優先するなら,「ひっそりと」とか「つつましく」の方が,きれいかもしれないな,とも思ってみたり。けれども やはり,すみれとしての「意思」の存在がすこし見え隠れする語として,「わきまえて」を選んだのでした。でも,もしかして,別の機会があったら,このあたりの箇所は,またちがう訳をしたくなる可能性が一番大きい箇所です。

そして,最後の連で,ディキンスンは,自分がすみれのように生きられるかどうか 自分に問いかけています。ここも,異稿があって,「すみれのように生きられる?いや,無理」とほとんどネガティブに聞こえる方が,いちおう正規のテキストで,でも候補の方では,「生きられるんじゃないかしら」とポジティブな雰囲気になっています。

最後の2行,「うちで育てたひょろひょろミントでも,みつばちの飲みものを 作れるとしたらー」は,原詩では,As make of Our imperfect Mints, / The Julep - of the Bee - です。

不完全な,育ち方のあまりよくない,うちの庭のミントでも,みつばちが蜜をもとめて訪れてくれるわけだから,完璧な自分ではなくても,何かをすることはできる。だから,自然のリズムに従って,季節がめぐってくれば「紫色の仕事」をし,また季節がうつりかわったときには粛々と,草の下にひきこもるすみれのように,死という自然をうけいれる,そんなふうにありたい。

と,ディキンスンは言っているのではないかと 感じるのです。

わたしは,この詩をこんなふうに感じ取りましたが,ちがうふうに読めると感じる読者もいらっしゃるかもしれません。そういうふうに,人によって感じ方がちがう場合があって,ときには答えが一つではないのも,ディキンスンの詩の世界の 広さだと思います。

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ディキンスンに興味をもたれたら・・・今のところ,日本語訳の全詩集は,出ていません。(いつか,そういうのが出たら,もっとディキンスンが身近になると思うのですが。)

でも,いくつかのおすすめの本があります。古書としてしか手に入らないものもありますが,どれも,おすすめです。

ディキンスン詩集(海外詩文庫)新倉俊一 訳 思潮社 刊

エミリ・ディキンスン詩集「自然と愛と孤独と」(続,続々あり )中島完 訳 国文社刊

わたしは誰でもないーエミリ・ディキンスン詩集 川名澄 訳 風媒社刊

エミリ・ディキンスンのお料理手帖 武田雅子 鵜野ひろ子 山口書店刊

原詩の全詩集は,おもに2種類あります。

Complete Poems of Emily Dickinson/ Thomas E. Jhonson

The Poems of Emily Dickinson / Edited by R.W. Franklin

Thomas E.Johonsonは,1950年代に,はじめてディキンスンの手書きの草稿を体系的に整理,編集して,全詩集をまとめあげた人。

Franklinは,Johnsonのお弟子さんで,Johnsonの後を次いで,Johnson版をさらに整理し直し,必要な修正を加えたものを作ったそうです。今,研究者の先生方は,Franklinの詩集を基本的に使用されるようです。JohnsonとFranklinのバージョンでは,詩の順番も違っていたり,所々では,詩文そのものが少し違っていたりします。膨大な量のディキンスンの草稿は,当然手書きのため,読み方に異論が出る箇所もあり,またディキンスン自身による異稿も多く,それらを一つの形にまとめるのには,それぞれの編集者の研究による判断が働いている箇所がある,ということです。

でも,JohnsonとFranklinに共通しているのは,出来る限り,ディキンスン自身の原稿に忠実であろうとしていること。ディキンスンの死後すぐに,メーベル・トッドなどの縁者たちによって出版された初期の詩集は,当時の価値観や,常識とされた表現に合わせて,手が加えられてしまっているのです。実は,このことが,詩の価値を半減させ,ディキンスンが認められるのが半世紀近く遅れたとも言われているようです。本格的にディキンスンが読まれ,研究されるようになったのは,Johnsonによって編まれた全詩集が出てからだということです。

Franklin版が出る前は,ディキンスンの詩の番号はすべて,Johnsonによるものと決まっていたのですが,最近ではは,F564 J557 というふうに FかJがつけられています。モーツァルトの楽曲を整理編集したケッヘルの業績から,モーツァルトの曲にはKではじまるケッヘル番号がついているのに,似ていると思います。

実は,今,神戸女学院大学で,ディキンスン研究の専門家である鵜野ひろ子先生が教鞭をとっておられるので,数年前,先生のディキンスンの講義に1年間個人的に通わせていただきました。その時に教えていただくまで,今は基本テキストがFranklin版に移行していたことを知りませんでした。

わたしは,今は基本的にFranklinの方で訳(個人的に趣味で,すこしずつ訳してきました。ほんとに,すこしずつですが)をしますが,もともとJohnson版のComplete Poemsから入った親しみで,今もJohnson版の詩集もよく開きます。とくに,3巻セットで箱入りになっているJohnson版は,本自体が美しく 置いているだけでもなんだか満ち足りた気持ちになります。(まだAmazonなどもなかった1992年ごろ,丸善で取り寄せてもらって,2ヶ月かかって届きました)

余談:左にあるのは,子供の頃,何度も読んだ なつかしい「嵐が丘」の本。この間,実家でみつけて,思わず持って帰ってきました。

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* エミリ・ディキンスンの庭から

2010/02/03 | Filed under , | Tags .

Book in Book (綴じ込み冊子)を作らせていただいた,MOEの3月号が,今日発売になりました。

今月のMOE,巻頭の特集は,「わたしのワンピース」という絵本でおなじみの,西巻茅子さんの特集です。西巻さんは,刺繍による絵本も手がけていて,やっぱりご自身も,洋裁への愛着がとても深いそうです。

そのほか,絵本のほか手芸本も出しておられるイラストレーターのスドウピウさんや,わたしと同じく京都在住で,布の型染めでいろんな作品を作っている関美穂子さん,それから今回のBook in Bookのデザインをしてくださった大谷有紀さんの2eというユニットによる,びっくりするほど可愛いレースや刺繍の雑貨など,刺繍や手芸,布の手作りが好きな方にも,ツボにはまるような情報が満載で,本当におすすめです。

そして,今回 じぶんの手がけたBook in Bookについて…

森,野原,薔薇… ディキンスンの詩に こんなふうに絵を合わせてみたいな-と,思っていました。たぶん,もう20年は思い続けていたこと。それをずっと以前にMOEの編集のMさんにお話したことがあったのですが,今回こんな機会をいただけることになったのです。

草花そのものを素直にうたった美しい詩。草花というモチーフを通じ,心のなかのことを,表現した詩。今回えらんだディキンスンの詩は,長年いつも読み返してきた作品です。

見開きのすみれの野原のページにある,ふたつの詩は,生き方について語っています。

それから,薔薇の精油の詩は,ディキンスンにとっての「詩作」をテーマにしていると思います。

ディキンスンの詩は,一読しただけでは意味がわからないものもたくさんあります。原詩ならなおのこと,ですが,それは日本人のわたしたちが英語で詩を読むからだけではなく,アメリカ人の人が読んでも,時には「サッパリわからない」そうです。

そういう時は言葉どおりに素直に読んでみると,心で感じ取ることができるのよ。。。というのは,恩師の(ディキンスン研究の第一人者)鵜野ひろ子先生の言葉でした。

今回の絵,去年の11月と12月の2ヶ月ほどの間,描いていました。表紙と背表紙になっている野原の絵は,じつは,p64と65の ねむっている花たちが「めざめた」野原のイメージです。

何度も描き直したりしながら,でも,描き終わるときには寂しくて,もっと,ずっと描いていたいと思ってしまいました。

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* ポーリー,おはなのたねをまく

2010/01/18 | Filed under | Tags , .

3月中旬に、翻訳をてがけた本が出版になります。「ポーリー おはなのたねをまく」PHP研究所 文 シルヴィー・オーザリー=ルートン  絵 ミリアム・デルー 訳 前田まゆみ  です。ねずみの子 ポーリーが、おじいちゃんにたのまれたお花を育てるのですが・・・?入園のお祝いなどにも良さそうなかわいい本なので、ぜひ、読んでいただけたらうれしいです。

原書は ’La mission de Séraphine ’,ベルギーの絵本です。

(↓うちのPCで見る限り,音声大きめです。音を小さくしてから、ご覧ください。とくにオフィスでご覧の場合)


Lectomaton, La mission de Séraphine, Luton et Renard
アップロード者 lectomaton.

原書はフランス語ですが、仏語だけから直接訳したわけではありません。。。英訳もあったのでございます。

翻訳のしごとは 楽しいだけでなく,他の作家さんの絵本の世界にそのまま入り込むので、かなり勉強にもなります。2月3日発売の白泉社 MOEの綴じ込みブック・イン・ブックでは、エミリ・ディキンスンの詩をいくつか訳出しました。絵本や詩は、ことばが少ないものですが、少ないだけに、逆に難しいことがあるというのも痛感しました。でも、とてもやりがいを感じます。

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* 野の花えほん

2009/04/06 | Filed under , , 野の花えほん | Tags .

4月末に あすなろ書房から「野の花えほん」が刊行になります。ほんとうに久しぶりの絵本です。

今、表に出ると 「野の花えほん」に描いた春の花が、今年も次々花開いているのに出会います。ちょうど去年の今頃も、毎日外を出歩いては 花を採ってきて、スケッチを描いていました。

写真の 「むらさきけまん」もこの絵本に紹介した花のひとつ。以前住んでいた家の近所の空き地に咲いていたのを採ってきて、庭に植えているのです。

絵本のこと 絵のこと、思うことがたくさんありすぎて、短くまとめきれません。少しずつ、書いてみたいと思います。

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* いつものわたし、ナチュラルな服 (続)

2009/03/20 | Filed under アート, リネン, 動物, | Tags .

明日からLINNETで、「いつものわたし、ナチュラルな服」に収録の作品をセレクトして展示します。編集さんの手元から戻ってきた作品を箱から取り出していると、撮影のときのことを思い出します。

お洋服の本を作る時に、いつも悩むのがスタイリングのこと。わたしの場合、プロのスタイリストさんとは違って、特定のテーマを設定して、スタイリングを創造するような能力がありません。ですから、スタイリングと言っても、いつも結局、自分の持っているものを作品に合わせることしか出来ません。ただ、出来上がってみると、それはそれで、まぎれもない そのまんまの素の自分の世界が本になっている気がします。

今回も、学生の頃好きだった古いレコードのジャケットや、好きな洋書など、身の周りにいつもあるものを洋服に合わせました。P18,19,22に写っている植物標本は、夫の叔母が若かりし頃、留学先のアメリカの大学の授業で作ったという押し花の標本を、特にわたしに、と叔母が言ってくれて譲り受けたものです。律儀な叔母の手がき文字で、植物の名前などの情報が書き込まれたそれは数百枚もあるのですが、叔母亡き今、大切な形見でもあります。この標本自体が本当に素敵なので、額に入れようと思って出してみた所、ふと思い立って、その中の一部を服に合わせてみました。明日からの展示では、その標本もLINNETに置いて、お客様に見て頂きたいとおもっています。

撮影は去年の9月の始め頃。その頃から、うちの台所のお勝手口に、子猫が遊びに来るようになったのです。頭からおしりまでの長さが20cmくらいしかなかった子猫は、姪の持っている猫のぬいぐるみにそっくりで、姪たちがつけた、そのぬいぐるみの名前をもらって「ニャンカ」とよぶようになりました。夏の終わりで、いつも網戸にしていたお勝手口に、撮影の間もニャンカが遊びに来るので、皆さんに見てもらったりしました。

あれから7ヶ月近く。ほとんど大人に近づいたニャンカ、実は、今はうちの家族なのです。今は外にも出かけたがらなくなり、完全室内暮らしで家の中を走り回っています。他の猫3匹とも、仲良くなりました。上の写真は、本の撮影の合間に撮った、子猫時代のニャンカです。

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* いつものわたし、ナチュラルな服

2009/03/19 | Filed under アート, リネン, | Tags .

新しい本「いつものわたし、ナチュラルな服(文化出版局)」が出来上がりました。

 

表紙にもなっている、ピンタックいっぱいのドレス。アンティークのシャツを参考に、最初は肩幅を広く、肩が落ちるデザインで作りました。でも、自分で着てみると、なんだかすごく、太って見える。。。そして、細い方が着たとしても、ちょっと無駄に大きく見えそうな感じ。そう、思い直して、肩まわりをスッキリさせて、作り直したのです。アームまわりなどは、ゆったりととって、着心地よく。

見た目はスッキリ、でも着るとゆったり。それが、わたしの作りたい、自分で着たい服なのだな、と今回あらためて思いました。

スッキリといえば、p20のロールネックのワンピースも、首が長く、小顔に見えます。このワンピース、クラシックのポースレインブルーで作りました。モデルさんに着てもらったら、ものすごく似合っていて、思わずうっとり。。。そういえばここ数年、こういうちょっと大人っぽいワンピースを着ていないので、自分用にも作りたいと思っています。

LINNETのサイトやお店でも、たくさんのお問い合わせをいただいている、バラのコサージュの作り方も、「いつものわたし、ナチュラルな服」にご紹介しています。

新しい本、楽しんでいただけることを ねがっています。

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* さんぽ

2009/01/20 | Filed under アート, リネン, , | Tags .

2009年になってもう半月以上が過ぎてしまい新年のごあいさつが遅くなりました。今年が皆様にとって、静かで穏やかな年になりますように。今年もどうかよろしくお願いいたします。

年末年始,ほとんどアトリエで仕事をしておりました。今年は,春に書籍が2冊ほぼ同時に刊行になります。大人服の本「いつものわたし、ナチュラルな服」と、「野の花えほん」です。

ほとんどこもりきりの毎日でしたが、時々は友人に会えたり,週末は夫と近所を散歩したりすることで、気分転換していました。いつもの散歩コースはだいたい2通り,糺の森を抜けて川べりから戻ってくる」か、その逆かどちらかです。落葉樹の多い森の中は,冬の方が光がたくさん射していて,木漏れ日がきらきらと小川にそそいでいます。

帰りに高野川を歩くと,鴨がいっぱい。きっともうすぐ雛が生まれるんじゃないかな。「野の花えほん」では高野川をイメージした風景も描きました。

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* 「海潮音」

2008/12/02 | Filed under | Tags .

 

来年の春に刊行される予定の本のために,春の間にしておいたスケッチ。今,このスケッチをもとに絵本の原画を描く作業を毎日つづけています。カレンダーもそうですが,絵本も一つのまとまりでボリューム感があるので,ひとつひとつ山をのぼって行く時のような趣きです。

絵本の中に引用した詩の掲載確認を編集部にお願いするために,原典になる本を引っぱりだして来ました。そのうちの一つは,上田敏「海潮音」(新潮文庫)。

改めて読み返してみると,ん〜〜良い感じで和みます。この詩集は,明治30年代の出版で,ドイツ,フランス,イギリス,ベルギーなどの詩を上田敏が選んで訳したものです。たとえば,収録の有名な詩のひとつは,ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの ためいきの・・・」というもの。上田敏がその頃出始めていた新しい詩に深い精神性が欠けて表面的になりすぎていると考えて,彼の考えるその「精神性」がよく表現されている西洋の詩を紹介することで,問題提起をしたいと思って出版したそうです。

そして,あえて古風な七五調を使ったり,古語をあてはめたりして訳されているのは,内容の新しさを強調するために意図的にしたことだそうです。たしかに,わざと古風な訳になっていることで,「祇園精舎の鐘の声・・・」などと同じように聞こえるのですが,それだけに唄っている内容の違いが際立ちます。どこが違うというと,それまでの日本の古典ではなかったような,こまやかな心理描写などが唄われている点ではないかと思います。今となっては,ごく当たり前のようですが,それら外国の詩に唄われている内容の新鮮さ(当時の日本人にとっての)が,より強く伝わったのではないでしょうか。その後に出て来た北原白秋などの詩人に,大きな影響を与えた本だったそうです。

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* 少年少女文学全集

2006/11/20 | Filed under | Tags .
結局1ヶ月に一回しか更新できていないブログ状態・・・どうしてかフォントのサイズを変えるツール画面が消えて、どこに行ったかわからなくなったりして、まごまごしています。
この間、スタッフと子供のとき読んだ本の話になりました。前回、「こうさぎましろ」のことを書いたけれど、実際わたしの子供の頃は、今ほど絵本が豊富になかったような気がしますが、わたしよりもかなり若い世代のスタッフたちも、わりと同じ気持ちのようでした。そのかわり、お話の本みたいなのが今よりもずいぶんあったように思います。ゲームとかもなかった時代ですし、子供が家で退屈する時間も結構あって、ずーっと読んでいられる本は、それなりの需要があったのかもしれません。
わたしの家にあった本の中で、大きな場所を占めていたのは「少年少女文学全集」みたいな本。ほとんど大人向けと変わらない文章で、ただふりがなが多いような感じのものでした。その中にはスタンダールの「赤と黒」とかモーパッサンの「女の一生」とか、トルストイの「戦争と平和」とか、あとエミリ・ブロンテの「嵐が丘」なんかが入っていて、今あらためて考えると、子供の読む本の内容としては、セレクトがシリアスで重過ぎるのでは、と思うのですが、小学5〜6年の頃、結局それしか読むものがないので、読んでいました。今どきの小学生は、「チャーリーとチョコレート工場」とか、楽しそうなものをいっぱい読んでいるみたいなので、ちょっとうらやましい気がします。
正直言って、スタンダールとかモーパッサンなんて、今時仏文の大学生でも、あんまり読まないんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう。「赤と黒」は、貧しくて出世欲に燃えた美青年が、家庭教師先のお母さんと不倫の恋をして、欲望と出世欲に翻弄されたあげくに破滅するというストーリーですし、「女の一生」は、ほんわかして苦労を知らない裕福な家庭で育った少女だった主人公のジャンヌが、恋をして結婚するけれど、夫は浮気ばかりして夢破れて・・・みたいなお話でした。そんなストーリーを小学生に読ませるって、どうなの?それに、時代背景がよくわからないから、「赤と黒」なんてそれほど理解できなかったです。でも、不思議なんですが、子供なりに何となく「このお話はなんだかすごい」とか、そういう事は感じてたような気がします。「このお話は、お説教臭いだけだな」とか、思ったりしていましたし・・・でも「戦争と平和」は長過ぎてどんなお話だったか、もう忘れてしまいました。
一番あとまで心に残ったのは、「嵐が丘」で、子供ながらに読んだあと強烈な印象を持って、おとなになってからも何度か読み返しました。「嵐が丘」などは、言ってみれば「文学のアンティーク」みたいなもので、そこに今の製品としてのものも売られているのに、なぜかアンティークのリネンのタオルとか、レースとか、洋服に惹かれるのと同じようなものかもしれません。いろんな角度から謎解きができたりして、構造が単純ではなく、時代を超えていく魅力があるような気がします。子供には重かったですが・・・
子供としては、当時一番好きだったお話は、「秘密の花園」だったかな、と思います。鍵がかかる花園=お庭というイメージがあんまりよくわからなかったけれど、なんだか惹かれました。そして、そこに「ぶどうパン」を持って行って食べるというシーンが大好きでした。ぶどうパンが好きでしたから・・・結局は食べ物!なんですね、きっと。。。

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