* 同じ穴のむじな その後

2010/10/09 | Filed under 動物 | Tags .

以前、うちの玄関前で 野生動物と遭遇して、子だぬきと思ったものの 後で考えると だんだん穴熊だったような気もしてきたというお話を書きました。

その謎は保留だったのですが、近所の下鴨神社の糺の森にたぬきの家族が住んでいるという話を聞いていたので、9月のはじめごろ、夕方暗くなりかけたころ 森に行ってみました。

森の中の薮で、どうも「ケモノ臭い」においのする辺りがあるのを感じたことがあったので、いるとしたらあの辺りかなという見当もあったからです。夕方にしたのは、たぬきは夜行性だから。

それにしても、闇が半分以上降りて来ている頃の夕方の森は のぞきこむと なんだか怖いです。むかしの人は、夕方を「逢魔が時」って言ったそうですが。。。もちろん真っ暗闇の方が もっと恐怖だとは思いますが、夕方の薄闇は、うすぼんやりと見えるために なにか魔物の姿が見えそうな怖さがたしかにあります。

そんなきもちで なんだか怖くなりながら 森の、いるとしたらこの辺り、と思っていた薮近辺をのぞきこんでいると 突然 ガサガサ!! と音がしてドキーン!

目の前に、小ぶりなたぬきが。私の方をじっと見て、向こうも完全に恐怖で固まっているようです。ドキドキしながら、今度はまじまじと直視して、とにかくタヌキ以外の何者でもありませんでした。

10秒かもっと以上、お互い固まっていたでしょうか。

その時 私が左手に持っていた袋がガサっと音をたてました。(コンビニに寄った帰りだったのです)すると、私のすぐ左の茂みから 別のタヌキが2匹、バッと飛び出して、最初にいた1匹と合わせて3匹、一目散に森の奥へ逃げ去りました。「あー、やっぱりタヌキだったのか」と妙に納得。

また、数日前 動物園にスケッチしに行って、再度あなぐまをしみじみ眺めました。(指をなめながら、ハンモックで寝入るところでした)あなぐまの顔は白っぽいですが、玄関前で見た動物は顔全体が黒っぽかったので、タヌキにまちがいなさそう。ということで、やっとスッキリしました。

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* 人はいつから人になるの?

2010/10/06 | Filed under | Tags .

生殖・発生の医学と倫理 ―体外受精の源流からiPS時代へ (京都大学学術出版会 刊)

という本を読みました。

著者は、森崇英 京都大学医学部名誉教授(1935年生)。日本の体外受精研究の草分けの一人で、徳島大学在任中に、日本で初めて医学のための「倫理委員会」を設立しました。その後、研究の場を京都大学に移し、高度生殖医療を日本に根付かせ、社会に認められるために、さまざまな努力をしてきた著者が、この本ので問いかけていること、それはつまり「人は、いつから人になるのか?」という 哲学的テーマです。

不妊治療の中で、今では 体外受精は当たり前の治療ですが、この技術がはじめて確立された当時「試験管ベビー」と呼ばれ、大きなセンセーションを巻き起こしました。臨床的にも日本で確立してから、まだ30年もたっていません。世界で初めて、体外受精を成功させたのは、イギリスのエドワーズ博士。まだ、世界初の体外受精児が誕生していなかった1970年代前半、著者は、エドワーズ博士と何度も会い、重要な示唆をうけ、また、エドワーズ博士の、体外受精にかけている「迫力」を感じたと回想しています。

その後、高度生殖医療が、不妊になやむ患者のためにも、また医学的進歩のためにも、日本に導入されるべきだと思った著者は、そのために奔走しました。

徳島大学で、著者が指揮をとる体外受精をスタートさせ、また倫理委員会のような組織の必要性について模索しはじめていたちょうど矢先、著者は、がんなどの患者から摘出した卵巣の卵子を、患者に無断で研究に使用していたということで、マスコミに糾弾されました。記者会見を開き、真っ正面からおわびをした上で、朝日新聞のインタビューなどにも答え、使用していたものは、廃棄されるものであること、また、卵子という命の宿らない細胞の状態での実験であったこと、がんなどの重篤な病気の患者さんに「実験用に使わせてくれ」となかなか言いにくい状況があることを社会に理解して欲しいと訴え、事件はほどなく収束。

けれども、この事件は著者にとって、あらためて生殖医療についての倫理観を、早急に、社会で共有しなければという思いが強まるキッカケになりました。

その後も、粘り強く、研究、臨床治療活動をつづけて、今では、体外受精で生まれた子は55人のうち1人の割合でいるという程、一般に浸透しているのは、多くの方がご存知のとおりです。

けれども、そこには、人の誕生を人が操作するということが孕む倫理的な問題が横たわっています。

まず、この本で論じられているとおり、生殖医療の技術を進歩させるということは、つまりは患者さんの幸福につながるわけですが、そのための研究では、どうしても受精卵を扱うことが必要になります。その際、その受精卵が人の命そのものであるかどうか?という命題に行き当たるのです。

興味深いのは、各宗教によって 見解が本当に多様なことです。

ローマ・カトリックでは、受精した段階から人の命とみなします。このため基本的に生殖医療そのものを否定する立場です。カトリックは、人間の誕生や死は「神の領域である」として、避妊なども禁止していることは、ご存知の方も多いと思います。

それにくらべて、生殖医療を、世界にさきがけて科学技術として推進してきたイギリスの英国国教会は、受精して14日後に「胚」ができる前は、人命とはみなさないという立場をとりました。なんともこれは、イギリス人らしく合理的です。これなら、受精後14日以内の受精卵は、倫理上の問題なく、研究、実験に使うことができます。

また、ユダヤ教は、受精卵が子宮に着床してからが人の命、イスラームではなぜか受精から60日後とされるようです。

ところで 仏教といえば。

仏教には、輪回転生という思想があります。(つまり、これは私なりの解釈ですが「個人」は絶対でなく、絶え間なく変化しながらも全体としては増えも減りもせず、ただ循環している宇宙の中の、一つの現象ととらえます。)

何度も生まれ変わるということは、つまり、今は人間でも前世や来世が動物になるという可能性もあり、どこからどこまでがその人個人であり人間であるか 基本的にははっきりしていないということのようです。また、キリスト教的な「人が人であることの尊厳」のような思想が、もともと仏教にはなく、人も動物も同格なのです。

そして、著者が、倫理委員会のメンバーに迎え、ヒアリングをした高野山(真言宗)のお坊さんによると、仏教では、すべてをありのままに受け入れるという発想なので、生殖医療が発達して、そのような形で人が生まれて来るのであれば、それもまた人の生まれる道である という立場になるそうです。

著者によると、簡単には結論の出ない こんな命題について考えなくてはいけないのは、高度生殖医療研究のためだけではありません。IPS細胞などのクローン技術が、すごい速さで発達しつつあるからなのです。

今、脳死についてなど 人がいかに死ぬべきかということについては、さかんに議論されていますが、人がどのように生まれて来るべきか という議論は まだ活発でない。でも、今、それは「いかに死ぬべきか」の議論と並んで、絶対に避けて通れないものになっている、と著者は考えているようです。

この本、なぜ たまたま読むことになったのかというと、この著者は、実は私の叔父で、出来立てほやほやの本を、先週もらったのです。

この叔父とは、今、近所に住んでいるため、折りにふれて、いろいろな話をします。マスコミで騒がれたこともある医学部教授というと「白い巨塔」の財前教授のようなイメージかもしれませんが、ふだん着の叔父は、単刀直入に表現すると 天然ボケ。白髪をふりみだし 診察室で患者さんに接する姿は、町のお医者さんそのものに見えます。ただし、とてつもなくパワフルな人であることも確かで、また私のような畑違いの仕事についての話も、真剣に興味をもって聞いたりする、ある種の「純真力」をもっています。

この本は、私にとっては今まで身近にいながら、詳しく聞けなかった、「卵子無断使用事件」の経緯も含めた叔父の内面的な足跡を知るという意味でも、重要でした。その事件についてもこの本の中では 率直に事実関係を報告しています。そして、倫理委員会の発足経緯などについても、叔父が、高度生殖医療の導入、発展に人生を捧げて来たことをあらためて感じました。

人はいつから人になるのでしょうか。どのようにして生まれてくるべきなのでしょうか。

「人に魂が入るのは、いつからなのか」と叔父は問いかけています。

私にとっては、つねに「サイエンス」で、ものを考える「科学者」だと思っていた叔父が、「魂」という言葉を使って思考し、悩み続け、キリスト教や仏教などの宗教的な思想とも、真剣に向き合って考えつづけている事実に、あらためて驚きました。

本を読み終え、そんなことを考えていたら、昨日、奇しくも、この本の中に登場する世界ではじめて体外受精を成功させた エドワーズ博士が、今年のノーベル医学賞を受賞したというニュースが、目に入ってきました。

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* のんちゃんの絵、それから数字の色

2010/09/30 | Filed under アート | Tags .

最近、とても久しぶりに 大学時代の友だちと話しました。この友だちは、私にとって 結局のところ 一種の「巫女」的存在の人で、自分が自分の中のよくわからないことを、なんとか秩序づけようと考えているときに話すと、いつも 的確 かつ詩的な示唆をあたえてくれてきた とあらためて思います。

その友だちはシングルマザーで、今年、中1になるのんちゃんという女の子がいるのですが、のんちゃんがいままで描いてきた絵が 自由でやさしく、見ていると リラックスした しあわせなきもちになれる不思議な力があるようにおもえます。

そして、のんちゃんは、子どもの頃から、数字にも色がある って言ってたのだそう。

じつは私 あっそれわかるなあ。って思ったのです。

じつは私も、数字に色を感じます。

みなさんは、感じますか?あんまり深く考えないで、数字を思い浮かべて、直観で、色を思い浮かべてみてください。おもしろいよ。

わたしが感じる 数字の色はこう。

ゼロは黒。1は白。2は、赤かオレンジ、3は黄緑。4は・・・

ただ3以降になると、毎年カレンダーを描いているので、3月、4月、とかの季節感が持つ色に印象がひっぱられていく気がして、数字という抽象的なものがもつ 本質的な色として、自分が直観的に感じるのは、やっぱり、0と1と2までかもしれない、とも思いました。

この 直観的に感じる ゼロは黒、1は白っていうのは、なんだろう?

黒は暗闇で、白は光じゃないかしら。無と暗闇。すべてを吸い込むブラックホール。それがゼロで黒。

光は、その正反対。ふりそそいでくる光。世界(宇宙)が「存在」に満たされていて ひとつの「1」であるという状態。

そして、ゼロも1も 完全な静寂 complete silence の状態。だからモノクロームで、他の色はないのです。

でも 同じ静寂でも ゼロであり黒(闇)の静寂は、無の静寂。 1の静寂は、無の正反対。存在に満たされている 無限大の静寂。

ただ、この数字の色について、夫に聞いたら、夫は ゼロは無色透明、1が黒だと言いました。(上のような私の解釈を伝える前に、直観イメージだけを聞いてみた)

夫のイメージを言葉におきかえると、

黒を闇だとすると、ゼロは本当の絶対無で、1が闇、つまり闇でさえも存在のはじまりということになるのかな。

そして、2が赤だというのは夫も同じでした。

2が赤かオレンジなのは、「熱」かもしれない。物質と物質が出合ってぶつかりあうと 熱が生じるということ。

なんだか そんなことを考えてしまいました。

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* 透析しながら食道楽

2010/09/24 | Filed under | Tags .

「透析しながら食道楽 何を食べても大丈夫」飛鳥新社

友人が書いた本を読みました。キャッチーなタイトルです。

わたしにとっても20年来の友人である著者の朝倉めぐみさんは、イラストレーター。広範囲に活躍しているので、彼女の絵をご存知の方もいらっしゃると思います。その朝倉さんは、じつは数年前から人工透析を受けているのです。

朝倉さんは、お料理がとても上手で、本人も食べることが大好きな方。食に関してのセンスの良さはずば抜けていて、私も若いころからいろいろ教えてもらったりしてきました。

そんな方が、食事制限などの厳しい腎臓病になってしまったのですから、因果といえば因果なものです。人工透析になる前にも何年もの間、治療生活をがんばっておられましたが、はたから見ると体調がかなり心配な時期もありました。そして、結果的には、本人にとっても、またまわりにとってもショックではありましたが、透析を受けることになって、その後体調も生活もすごく安定したように見えます。

ところで、一読者としての私がおもしろいと感じたこの本の特徴はといえば。

最近、「食」に関して、とくに女性向けに発信されている内容の多くは、たとえばマクロビオティックの流れをくんだものとか、お肉を使わなかったり、ミルクのかわりに豆乳が使われているなど、ストイックな雰囲気をまとっていることが多いと感じています。写真や見せ方もそうだし、基本的にはストイックな生活スタイルへの希求というものがあって、食も位置づけられるという感じ。

でも、朝倉さんのこの本は、食に関する限りは、ストイックの正反対。美味しいものは透析してても、量を減らしてでも何でも食べたいし、肉もバターも礼賛、イギリスやフランスでも透析の予約をして、身軽に海外旅行もしてしまうし、友達を招いて、おいしい食事を作ってもてなして楽しく過ごすのが大好き、そしてご主人のためにもいつもたっぷりと手料理を作ってしまうような毎日。つまり、この著者は食というものを通して世界を愛でているので、だからストイックではなく、愛情がてんこ盛りなのです。

とにかく、この本は、家族や自分自身が、腎臓病、その他の病気にかかってしまって落ち込んでいるとしたら、この本はすごく元気を与えてくれる本だと思います。

そして、シトロンコンフィという食材のこととか、りんごのポタージュスープのレシピとか、エシレのバターケーキの話題などの食にまつわる話題は、透析話とは関係なしに楽しめるし参考になります。

次は、そういう食べ物のお話だけをあつめた、可愛いお洒落な朝倉さんの本が出たらいいな、とも思います。

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* 「祈り」

2010/09/17 | Filed under アート | Tags .

最近、絵を描くとき それを「祈り」だと思って描いています。

これはじつは、皇后美智子さまの言葉、「皇室は「祈り」でありたい」からインスパイアされたのですが。。。

「祈り」って、なんだかすごくしっくりくる。と思いました。

絵を描く人はみんな考えていると思うけれど、わたしも自分にとって絵ってなんだろうって、思うことがあるのです。わたしの場合、芸術として絵を描いているのではないのですが、どんなスタンスであろうと絵は絵で、絵を描くという行為は、原始的な衝動からうまれてくるものです。

長年仕事としてそれをしていると、いつかはそれを仕事として割り切って考えるようになるのかなと昔思っていましたが、そうはならず、それは無理だということが、逆にわかってきました。何年やっていても、絵を描くということを一般的な意味での「仕事」と考えるには、違和感がつきまといます。

では絵を描くとき、それを何だと思えば落ち着くのか?

私の場合、自分自身を表現するということにあまり目的意識をもてないので「自己表現」ではありません。そして、「仕事」っていうのもちょっと違うとすると いったい何?。

その答えはずっとみつかりませんでしたが、「祈り」だと考えると とても落ち着けたのです。

その「祈り」というのは、「世界が平和でありますように」とか「人々がみな幸福でありますように」とか「罪をゆるしたまえ」っていうようなのとは違っている。

つまり、現代の理性(おもに西洋で発達した)側から見ると 呪術とか魔術とかに分類されてしまう、原始的な心の欲求というか。

そういう、言葉でつづられたドクトリンに依っているようなものではなくて、もっと根源的な、無理に言葉にすれば、「自然との交合、一体感への欲求」のようなものかな、と思います。

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* 昼顔

2010/08/18 | Filed under | Tags .

京都では16日に五山の送り火も終わり、少し秋の気配。。。がするはずなのですが、いきなり今週は猛暑です。

五山の送り火と言えば、今年は、消えるのが何だか早かったと思っていたら、やはり、火が少なめだったそうです。というのも、最近、左京区の大文字山を始め、東山近辺の低い山々は、ナラなどの古木が枯れる「ナラ枯れ」がひどくて、遠目に見ても、まるで紅葉しているように見えるほどです。枯れ木に燃え移ると危ないということがあり、送り火の薪も少なめにされていたと聞きました。

↑写真は、高野川で採ってきた昼顔の花。「野の花えほん 秋と冬」の最初のページにも描いた花で、去年もちょうど今頃、川で採って来てエスキースを描きました。

夏の野草は、採って来て家で活けておくことが簡単なものが多いのがうれしい点です。春の野草は、摘んでくるとしぼんだりしてしまう繊細なものが多いのですが、暑い夏に咲く花は、長もちするのが多いような気がします。

昼顔は、つぼみがたくさんついている蔓を、なるべく長めにカットしてくると、毎日少しずつ順番に咲きます。

そのほか、へくそかずらや、洋種山ごぼうも、活けるときれい。花を活けるときは、ローズマリーを一枝入れておくと、こんな真夏でも、素晴らしく水が腐りにくく、水を替えなくても2週間くらいもったりもします。

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* 同じ穴のむじな?

2010/08/11 | Filed under 動物 | Tags .

1週間ほど前の話になるのですが、夜とても遅くなってしまって、夜中の2時頃、外猫(ご近所の方と共同で世話している、町内にすみついてる野良猫親子)にご飯をあげました。いつも、私は玄関の中に猫を呼び入れて、玄関のタタキの所でご飯をあげます。で、暑いので扉(引き戸)は30cmくらい開けておいたのですが、そこに、上の絵のような動物が近づいてきて、目が合ってしまいました。私もびっくりしたけど、向こうもギョッとして凍っています。

犬でも猫でも、イタチでもキツネでもない動物。猫よりは肩高が少し高め、まだ大人になりきってない若いときの柴犬か、ビーグルくらいの大きさ。私はとっさに「子タヌキだ」と思ったのですが、顔はグレーっぽくて、タヌキにしては若干細長い顔で、体はまんまるでした。

もっとよく見ようと玄関から外に出ると、動物はころんころんの体で全速力を出し、一目散に道路を走って逃げて行きました。その方向には、下鴨神社の糺の森。(徒歩5分)

キャットフードの匂いにつられて近寄ってきたのだと思いますが、私の家は、森に近いとは言え、かなり普通の住宅街の中にあります。こんな所を、夜は野生動物も徘徊しているのですね。ちなみに猫は、最初は気づいていませんでしたが、私について外に出て来たトラ美ちゃん(お母さんの猫)は、動物に気づき、ちょっとだけ威嚇しました。でも、相手の方が相当動揺していることもあり、猫の方は余裕です。どうも、始めて遭遇したというわけではないのかも。

糺の森にはタヌキがいると聞いたこともあり、みんなに「タヌキがきた」と言いふらしてしまったのですが、なんだかタヌキでないような気もしてきました。後でいろんな写真を見ると、たしかにタヌキの子にも似ていますが、何となくアナグマの方が近いようで、自信がなくなってきてしまったのです。顔がわりと細長く見えたこと、鼻のさきっちょがやや丸っこく、目が離れていたあの顔、もしかしたら、アナグマかもしれません。目元の黒い模様は、あまりハッキリしていなくて、顔全体がグレーっぽかったのですが、タヌキもアナグマも、いろんな写真を見比べると、個体によってはそういう感じの毛色のものがあるようです。生態としても、タヌキがいるならアナグマもいてもおかしくないですし。でも、、、やっぱり子タヌキだという最初の気持ちも捨てきれず、真相は闇の中。

ちなみに、後で 「まさか猪ではないよね?」と、自問自答してみたのですが、大きさから言っても、毛がふさふさしてたことから言っても、猪ではないと思いました。私の出身地、神戸ではよく町中に猪が出没するため、猪も見たことがあります。あの大きさで、猪だったら、たぶんまだ「うり坊」なのですが、そんなしましま模様でもなかったですし、やっぱり猪の可能性はなく、タヌキかアナグマかどちらかだろうと思います。

「同じ穴のむじな」ということわざにもある「ムジナ」と呼ばれる動物は、タヌキをさすとも、アナグマをさすとも言われています。やっぱり、タヌキとアナグマは、昔から識別がむずかしかったのだな、と実感しました。

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* やぎミルク

2010/08/06 | Filed under おいしいもの | Tags , .

岡山のルーラルカプリ農場さんが作っておられる、やぎミルクのヨーグルトとフレッシュチーズを注文してみました。臭みは全然なくて、ナチュラルなお味で本当に美味しい!

じつは今まで、やぎ乳というのは、「すごく臭い」というイメージでした。あの独特の臭みが好きな方もいらっしゃると思いますが、私は逆に全然駄目。フランスなどでよく遭遇するやぎチーズも全く食べられません。以前プラハに旅行したとき、有機食料品店で買ってみたやぎミルクもやぎヨーグルトも、あの独特の臭みのため一口もノドを通らず、結局中味はトイレに流してしまい(ヤギさん、本当にごめんなさい。)可愛いパッケージだけを持ち帰って、写真撮影に使ったりしておりました。

牛よりもずい分小型なやぎは家でも飼えるので、日本でも第二次世界大戦をはさんだ時期、食料の不足もあって、家庭でやぎを飼うということがわりと一般的にあったようです。お母さんのお乳が出ない時は、赤ちゃんにやぎ乳を飲ませたり、また子どものタンパク質補給源にしたり、最後は肉として食したり、ということで、たとえば私の母親などもヤギを家で飼ってたというのですが、あの臭いのあるヤギ乳を、本当に昭和前半期の日本人は、みんな飲めてたのだろうかと不思議に思ったりもします。

でも、この間からヤギの本などを読んでいると、ヤギ乳は本来そんなに臭いものではなく、ただヤギ乳に含まれるたんぱく質が、臭いを吸収しやすい性質があるのだそうです。なので、ヤギの体臭や、ヤギ小屋のにおいを吸い込んでしまうことから、あの臭みが生まれるのだとか。(だから、ふだんからヤギ小屋の臭いなどを嗅ぎ慣れていれば、全然においなど気にならないのかもしれないですね。ふだん複数の猫と暮らしている私が、猫のにおいなんて全然感じてないのと同じで)

このルーラルカプリ農場さんでは、搾乳のときにミルクが一切空気に触れない方法で、やぎのお乳を絞っていると書いてありまして、だとすると、あの臭いもないのだろうか?是非一度試してみたいと思って、通販でヨーグルトとチーズを注文してみたのでした。

届いて早速おあじをみてみると、なんと 本当にぜんぜん臭くない!!そしてすっきり、さっぱり、自然で上品なおあじです。乳酸菌もこだわって、デンマーク産のものを使用されているとのことなので、このお味の上品さはやぎ乳自体の美味しさの他、そのような「センス」からも生まれているのだと思いますが、とにかく これはもう私にとって、ひとつの大事件でした。

普通のやぎ乳の臭みを体験したことのない夫は、ヨーグルトもチーズも、普通の牛乳から出来たものとの違いは全然わからないようです。私はと言えば、まったく臭くないのだけれど、ヨーグルトもチーズも最後の後口に、かすかな「ヤギ的」風味があるように感じました。それは、臭いというのではなく、ほんとに良い意味でのかすかな「風味」。

牛乳とどこが違うのか全くわからないと言う夫に「ほらほら、ちょっとだけヤギの風味がするでしょ?!」としつこく誘導尋問すると、夫は「うーん 草の味?』。

そうか、もしかしたらこのヤギの風味というのは、牧草の味なのかもしれないな、とも思いました。

ルーラルカプリ農場さんは、行ってヤギと触れ合うことも出来るなど、かなり素敵な場所のようです。近いうちに、一度お邪魔してみたいと思っています。

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* 森のくまっこ

2010/07/28 | Filed under 動物, | Tags .

知床の砂浜にヒグマが出たとか、盛岡の動物園に野生のツキノワグマが迷い込んだなど、この季節はとくにクマ出没ニュースが多い気がします。

動物園に迷い込んだ熊は捕獲され、山に帰されたそうですが、、そこが動物園だから山に帰してもらえてラッキーだったかも。というのも、その少し前にも盛岡市近くの川にクマがいるのがみつかり、駆除ということで射殺されてしまったそうなので。

クマが人里に出て来る、とくに秋にそれが起きるケースは、山で,クマの主食であるドングリの出来に影響されるという説があります。クマの好むドングリは,落葉広葉樹の自然林に多い、コナラ、ミズナラ,ブナなどのブナ科の木の実で,杉や檜の大規模植林によって,,クマの生息域だった、そういう広葉樹の自然林の面積が減っていると言われています。地域にもよりますが、山奥に行く程、こういう人工の杉や檜の森が、たくさんある所があるようです。

それにひきかえ、山に近い集落付近は、今や過疎化で人がめっきり少なくなって、里山と呼ばれる周辺の森が野生がえりしているため、クマや野生動物の食べる実のなる蔓草などが繁茂し、集落では柿や栗の木がほったらかされていたり、農作物のゴミが捨ててあったりしてこちらも食べ物が豊富なため、クマの方でも人里近くの方が暮らしやすい、と思ってる傾向がうかがえるとか。

人工林といえば、京都の周辺にも、杉を人工的に密集して植林した森があります。昼でも真っ暗で、種々雑多な木がある森とちがって、下草もなく、まるで「黄泉の国」とでも呼びたくなるほど、不気味で陰鬱な雰囲気です。遠くから見るとこういう場所は、山にあって まるで「畑」のよう。千歳アイヌの猟師、姉崎等さんの話を聞き書きした本「クマにあったらどうするか」では、北海道でさえも奥地まで人工林で、そういう所は,過去にヘリコプターや飛行機で農薬を一斉散布していたこともあり、ミミズ一匹さえもいない死んだ森になっている、と姉崎さんが語っておられました。

ツキノワグマやヒグマは,通常はヒトを避けて生きていますが,ヒトと遭遇して緊張している時に,クマがパニックになると,「逆ギレ」して,やぶれかぶれで人を襲うというパターンが多いそうです。また逃げるものを追いかける性質があるため(犬みたいですね),後ろを向いて逃げると襲われてしまうとか.これはヒグマでも同じのようです.そして、ヒグマはツキノワグマに比べると執着心がとても強いのだそうです。

山に接した場所で農業を営む人にとっては,クマに作物を食害されるということは死活問題でもあり,体格も大きいし力もあるので,対応を間違えて人を襲うと、命に関わる事故にもなることから,駆除されてしまうことも多いのです。

「クマは眠れない」東京新聞出版局

この「クマは眠れない」という本は、日本に最初に「奥山放獣(捕獲した動物を,奥山に放す)」という方法を導入したツキノワグマ研究者の米田(まいた)一彦さんの一番新しい本(2008年刊)。米田さんは,青森出身で、秋田県庁にお勤めだった頃、鳥獣保護行政に携わっていたそうです。苛酷なクマの駆除の現場にも数多く立ち会い,やがて県庁を退職してフリーのクマ研究者として活動されるようになりました。その後、広島県に居を移し、絶滅の危険がささやかれている中国地方のクマのために,現在も広島県で活動中。韓国や中国のツキノワグマ保全にも尽力されています。この本は,最新の厳しい現実と情報分析が内容ですが,それと共に、著者がどんなにクマを愛してるかが伝わります。

巻末、「あとがきにかえて」として収録されている 奥州ことばで書かれた詩があります。

「くまは いつ眠るんだべえ」

(前略)

なして人を襲うんだべ。そごが分がらねえ。それさえなげればなあ。

おめだじは、ほんとに融通あ利かねえ、やじらだ。

いづも同じことをして負げる。

吾(わ)ど、そっくりだな、おめだじは。

(中略)

見たいことが、あるんだよ。

あめ、ゆじっこ降ったら木の穴っこさ潜る、おめえが、

赤ん坊のように無心に眠るところを。

その歯で、かもしかを食い、

その爪で人を襲った、おめえが、

凍れだ(しばれだ)山奥の木の洞で丸ぐなって、

今は穏やかに、まなぐを閉じて、眠っている。

(後略)

奥州人 米田一彦

米田さんの主宰されている日本ツキノワグマ研究所のホームページに,去年、乗鞍岳のバスターミナルに熊が侵入し、9人が怪我をして、最後にクマが射殺された事故の報告が載っています。これによると,一人が襲われていると別の人が助けに来て、またその人が襲われていると、また他の人が助けに来て、というふうに順番に次々襲われて怪我をしたそうです。

その中で、近くで山荘を営み,このときにクマに襲われている人を助けに入り、また自分も襲われて重傷を負った方が,「襲ったクマを恨むわけではない」とコメントされたというのが印象的でした。標高2700m、そこは、もともとは人の領域ではなかったことを、そこに暮らす方はふだんから感じておられるのかな、と思いました。

(文中より「beachmolluscひむかのハマグリ」にリンクさせていただきました。管理者様に御礼申し上げます。)

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* 野の花えほん 秋と冬の花

2010/07/26 | Filed under , 野の花えほん | Tags .

「野の花えほん 秋と冬の花(写真右)」が出来上がりました。

去年の今頃から11月頃までずっと、近所の川縁や道ばた、森のそばなどを歩いて野の花を探し、絵のエスキースを描くという毎日でした。掘り出し物の草花がみつかる、数々の「穴場」もあったのですが、それらの多くは暫定的な空き地で、今はなくなっている所もあります。キツネアザミのいっぱいあった空き地には家が建ち、川縁の美しいイシミカワの茂みがあった場所は、この間の大雨による増水で根こそぎ土が全部流れて川になってしまいました。

はびこる時には「雑草」と呼ばれたりもしますが、野の草花の存在は、こんなふうに時として儚いものです。だから、こうやって描きとめて、本の中にしまっておきたくなるのだと思います。

春夏と秋冬、2巻セットの本なので、こうやって2冊を並べられる日が待ちきれず、見本が届く前日の夜は、そわそわして寝付けませんでした。(この本の製作にたずさわって下さった、編集の吉田さん、装丁のタカハシさん、デザイナーのカワイさん、佐久印刷さん、そして、版元のあすなろ書房のみなさま、ほんとうにありがとうございました)

本が出来上がる時というのは、うれしいと同時に、とても緊張します。また、ページ数の都合で入れられなかった植物もいろいろとあったり、作っている途中はこれ以上余力がない状態の全力投球なのに、終わってみると、もっとあんなことも、こんなことも、と至らない点が目についたりもします。

ジャズシンガーの綾戸智恵さんが「一つアルバムが出来上がると、不完全な所に気づいてしまう。それで、また次のものを作りたいと思える」と書いておられましたが、私も同じ気持ちです。

たぶん、自分の作ったものに100%満足できる瞬間というのは、永遠に来ないのでしょう。。。それでもやっぱり本を作るのが好きです。

「あんなことも、こんなことも」という気持ちを次への原動力に、次の作業を始めています。

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