* 雨の思い出

2010/07/22 | Filed under 動物, 生活 | Tags .

といっても先週の今頃の思い出です。梅雨明けとともに猛暑の日々が続き、今年は太陽の黒点活動が減ってて寒冷化というニュースを半年くらい前に見たのにもかかわらず、やっぱり日本の夏という感じですが、(寒冷化と言っても、年平均気温が0.5度下がるくらいとのことでしたので、こんなものかもしれません)先週の今頃、西日本は大雨で、わが家の近所を流れる高野川も大増水していました。

堤まで水が来て、カヤネズミが棲んでいたかもしれない、川縁のオギの大群落も完全に水没・・・

すると、堤の石垣に、亀が濁流から避難して休んでいるのを見つけました。(しかもこれ、スッポンのようです。かなり大きくて、全長40cmくらい。当初、全然動かないので、死んでいるのかと思ってじーっと見ていると、30秒に一回くらい、ぱちっとまばたきをするので、生きているということがわかりました。

しかも、少し離れた所には、くさがめ(たぶん)もいました。こちらも大きさは30〜40cmくらいあります。

上流から、激流に流されてきてしまったのでしょうか。

近所の友達に、高野川でスッポンや亀を見た話をすると、その人の友達も、先だって出町柳の橋近くでスッポンをつかまえて食したことがあるそうです。野生のスッポンは、血液の中に寄生虫がいるので、生き血を飲むのは御法度、そして泥臭さを抜くために、捕獲後、2週間程自宅で真水の生簀を作って飼育しておいてから、さばいたそうです。

なんとワイルドな。

ふと、夫の友人で、いかにもスッポンをさばいたりしそうな人物が一人思い浮かんだのですが、とにかく、私はスッポンは独特のえぐ味が好きになれないし、生きてるのを眺める方が楽しみなので、食べようという発想はありません。

今週、川はまだやや水は多めですが、なぎたおされたオギの群落もまた水面から顔を出し、すっかり水に浸かった所に生えていたオニユリも、また咲いています。もちろんあのスッポンも亀も、もう姿はみえません。

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* アーロン収容所 

2010/07/17 | Filed under | Tags , , , .

昔、父の書棚から出して読んで、断片的にそのおもしろさを覚えていた本が、去年、中公文庫から再刊行されました。

著者の会田雄次さんは、もう鬼籍に入られていますが、京大の人文研に長く勤められた西洋歴史学の研究者。戦時中、軍に召集されて、ビルマに送られ、敗戦と同時にイギリス軍の捕虜になられました。捕虜として収容されていたビルマの捕虜生活の思い出をつづった本です。

花輪和一さんの、映画にもなったマンガの名作「刑務所の中」というのがありますが、この「アーロン収容所」も、それに類するおもしろさです。会田さんが所属していたのが京都で召集された部隊なので、切迫していてさえもどこかおかしみのある関西弁の会話(まわりを英軍に囲まれ、突撃して玉砕すると言ってきかない若い将校に、30すぎの「オッサン」の兵士が、「アホいいな、まだ大丈夫や、ひこ、ひこ。(退こう、の意味)」と声をかけてるとか)、捕虜になった兵たちが、英軍倉庫から「ちょろまかして」きた粉でまんじゅうを作ったり。兵士は、いろんな職業の人がいるから、何でも作れるのだそうです。それで、まんじゅうを作っている小屋には、ぼろ布を仕立て「まんじゅう」と書いた暖簾まで下がっていたとか・・・

こんなことばかりを書くと楽しそうですが、本の中味はそれが全てではなく、会田さんは、この経験を通じて、イギリス人や西洋の文化を冷静に観察して、その人種差別意識や、老獪な残忍さをいやと言う程知り、それまでの日本のインテリが持っていた、「憧れの西洋」的発想の修正をせまられました。

たとえば、イギリス人は誰も日本人と直接話そうとしない、イギリス人の女性兵士は、日本軍捕虜がそばにいても、平気で全裸でいる、なぜかというと日本人は動物と同じだから、「家畜」に裸を見られても恥ずかしくないのだと。

また、食事に出て来る米の品質があまりにひどいので、軍の上の人を通じて英軍にかけあってもらった所、「あの米は、家畜の餌として使用しているが、なんら問題はない」という答えがかえってきたとか。。。

中で、気さくに日本人とも話そうとした人が一人だけいて、その人はアメリカに長く住んでいたらしいということでした。会田さんの観察では、イギリス人やフランス人の持つ「老獪さ」というものが、西洋文化の裏の面として歴然としてあるということです。(ちなみに、イギリスの人種差別は私自身も経験したことがあります)

その他、日本人には好意的だったインド兵、ビルマの人たちのことも、客観的にたくさん書かれています。インド兵とビルマ人は、仲が悪かったそうですが。。。

会田さんは、歴史的に牧畜の文化をもつ白人が、捕虜を管理し、少ない食事(餌)で、最大限に働かせる、その合理的な考え方を、歴史学者として冷静に観察して分析しています。有色人種=家畜と同等、という意識を明らかにもっている彼らですが、怪我や病気をした時は、日本軍よりも手厚く手当をしてくれたし、殴る、蹴るなどの無駄な暴力はいっさいふるわなかったそうです。また、イギリス人の中の「階級」が、見た目でわかる程だということも書いています。

先週、IMF(国際通貨基金:先進国、おもに白人の国がお金出し合って作った信用組合みたいなもので、お金が足りなくなった国にお金を貸して助けたりする機能があります。今まで白人の国が中心だったため、アジアなどの国の出資比率が高くなることを警戒していたようですが、中国などが経済成長して、そんなことも言ってられなくなってきつつあるそうです)が日本に消費税を上げるべきだという提言をしてきたというニュースを読んで、「アーロン収容所」に書かれている合理的なヨーロッパ人というのを思い出してしまいました。

IMFの中心は、 アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスなどの白人の国々ですが、日本はアジアの国としては突出して、現在、出資比率では2位です。麻生首相がサミットだかGナントカかに出かけて、リーマンショック直後だったので、IMFに7兆円とかを寄付?(表向きは出資)したんじゃなかったでしたっけ。それなのに、なんでそんなことIMFに言われなきゃいけないのかな~~と一瞬思ったものの、逆にそうやっていつもお金出す立場の日本だから、なのかもしれないですね。

日本は財政が破綻しそうで、ギリシャみたいになると言わます。けれども、日本は借金が極端に多いとは言え、その借金、つまり国債の引受先は90何%が国内で、自分の国以外に多額のお金を貸してもらってたギリシャの状況とは全然ちがうんじゃないのかな、というのは、私はあまり経済のことを知らないものの、素朴な疑問なんですが。。。それってつまり、奥さんと子どもを外食に連れて行くのに、お父さんはおこづかいを持ってないから、奥さんと子どもたちにお金を借りているのと同じ状態な訳です。お父さんにお金がなくて、奥さんにも子どももお金なくて、しかたないので、近所の鈴木さんからお金を借りて毎日レストランに食べに行っているような状態とは全然その深刻さが違うと思うのですが。。。

でももちろん、だんだん奥さんと子どもにもお金がなくなりそうなので、お父さんはこのままで行くと近所の鈴木さんに借りにいかないといけなくなりそうだから大変だ!というのが今の日本の状況なわけですよね。それは主婦感覚からいっても、確かに危機的状況ではあります。

ギリシャは、お父さんにも奥さんにも子どもにもお金はないけど、近所の鈴木さんや、佐々木さんや、田中さんたちが競うようにお金を貸してくれてしまったおかげで、返せる範囲以上に借りて贅沢しすぎて(住宅バブルとか)みんなにお金返せなくなって、お金貸した人もお金が返って来ないので家計に影響して困ってしまったという状況な訳です。

本当は、日本よりもイギリスなどの方がさらにギリシャに近いのでは?そのような状況で、この前のG20で、各国が、財政を建て直しましょうという相談をして、共通の目標を設定したんだけれども、日本は例外になれました。それは、上のように借金が多いとはいえ、その性質が国内的なものだから。他の国は、たとえばドイツでも、ドイツ国債の半分は他国が買っている状態、つまり半分は国外の人にお金借りてる状態なわけなのですから。。。

余談ながら、そのG20で例外になったというニュースを朝日新聞と読売新聞のネットニュースで読んで、論調が「疎外された」「孤立した」という感じだったのが不思議でした。借金多い国の人たちが集まって共同目標作ってお互い監視し合うのを、日本だけ入らなくて良かったのをよろこばないで、どうして「孤立」「疎外」っていうネガティブな言葉になるのかなー?お互い借金の持ち合いをしてる国々は、いざというとき助け合うから?でも、日本は、IMFにもいっぱい出資してるんだから、いざというときは、IMFに対して、(焼け石に水でも)お金出して、って強気で言う権利くらいあるはずです。日本だけ、独自の道があってもいいのではないでしょうか。

そしてIMFに「消費税上げた方がいいんじゃないスか?」って言われて、IMFが日本のためを思って言ってくれたなんて 勘違いしそうになりますが、そんなはずは絶対ないわけです。IMFはただ、日本は増税でも何でもして、IMFにまたお金を出して欲しいから言ってるし、世界2位とか、中国に抜かれて3位になるとしても、そういう規模の日本経済が破綻したら、やっぱり世界中に影響を与えてしまいますから、そういうことを真剣に心配しているだけで、日本人の生活を心配して言ってる訳ではないのです。

そして西洋の人というのは、別にそう思って言ってるということを、隠したりしないはずだと思います。

自分達の利益になることを主張するのは理にかなっていて、それは恥ずかしいことでも何でもない、というのが、「アーロン収容所」にも書かれている西洋文化の「合理性」なのじゃないかな、と思うのです。自分たちの利益だけを最優先に主張するのを「恥ずかしい」と感じる日本の美意識は、悲しいけれども、そこで少し弱さにつながってしまうのかな、とも思います。

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* ベジャス君からの手紙

2010/07/09 | Filed under アート, 生活 | Tags .

ベジャス君から始めて私宛に手紙が届いたのは去年です。楽しい絵をいろいろと描いた便せんと封筒に、雪だるまの絵を描いたコースターが入っていました。

ベジャスは,カナダに住んでいる13歳の男の子だそうです。その少し前に,ネットを通じて,LINNETに布などの注文をしてくれたお客様でした.でもまさか,13歳の男の子だとは想像もしていませんでした.

手紙には,「男の子としてはおかしいかもしれないけど,手作りするのが好きなんだ」と書かれていました。それから「ぼくの名前はリトアニアの名前なんだよ」とも。

それでお返事を書きました。絵や作品がとても素敵でおどろいたこと。LINNETでは男性の作家さんの作品も扱ったりしていて、男の子で手作りや縫い物が好きなのは,全然おかしくないと思うこと。リトアニアは、リネンの産地として日本ではとても有名だけれど,ベジャス君はリトアニアに行ったことがあるの?などなど.

するとまた返事が来て、「リトアニアには家族で行ったことがあるよ.それがすごく変な用事で行ったんだけど,,,おじいちゃんの歯医者さんに行くのが目的だったんだよ」「リトアニアでは,親戚が,戦争で傷んだアパートにまだ住んでいて、心が痛かった.でも田舎の親戚の家は農家で、広い牧場や畑があって,すごくたのしかったよ」

そして,すてきな絵や手縫いの作品が同封されていました.

こんなふうに,ベジャスとの手紙のやりとりが始まりました.

ベジャスはとても聡明な男の子.13歳らしく,あどけなく学校のことや,妹のことなどを話してくれたりもしますが、いろいろなことを彼なりに考えているようです。

ベジャスは,カトリック系の学校に通っているそうです.学校で習う神学の授業には,いろいろと考えることもあるらしく,ある時はわたしに,「こんなことを聞くのは良いかわからないけれど,まゆみさん(ベジャスは日本のまんがも大好きで、わたしのことをちゃんと日本風にさん付けで呼んでくれるのです)は,どんな宗教を信じていますか?ぼくはカトリックの学校に行っているのだけれど,まだどんな神様を信じたらいいかわからない」と書いていました.

それでわたしは,こんなふうに返事を書きました.

「わたしはプロテスタントの学校に通っていたけれど,キリスト教徒ってわけではないんだ.日本の家はそれぞれ仏教のお寺に属してもいるから、その意味では、生まれながらの仏教徒だけど,近所には大きくて古い神社もあって,大切な儀式は神社にたのんだり,毎年おまいりにも行くんだよ.日本では,仏教よりも,神社の方が古くて、神社には「八百万の神々」っていう考え方があるんだよ.つまり木にも草にも石にも,トイレにさえも,自然界のどこにも神様がいるっていう考え方なのよ.だから,日本では仏様も,イエスキリストも,みんなが大切にするのは「八百万の神々」のひとつだという気持ちが根底にあるからじゃないかな。こんな考え方、ベジャスの学校の神父さんが聞いたら、怒るかもしれないけど,私は、これは日本のすごくいい所だと思ってます.反社会的なカルト宗教でさえなければ,日本では少なくとも宗教をめぐって戦うとか,そういうことは起こらないのよ.」

ベジャスは、手塚治虫の「ブッダ」なども読んでいて,最近ではますます日本に興味をもっているようです.ベジャスが特に日本ですごいと思っているのはマンガで,手塚治虫などの作品は、日本のマンガにしかない深い内容があると感じているよう.

ベジャスは書いています.「縫い物は、ただひたすら縫ってるときが好きで、とっても楽しい」13歳なのに手縫いの作品をどんどん仕上げるのですから、本当に縫うのが好きなのでしょう.そしてベジャスは、お話を作ることや,絵を描くことが好きで、そして今はマンガを描いてみたくてたまらないようです.ベジャスが考えているマンガのストーリーを教えてくれました.それはとても悲しい物語でした.

どうして、こんなにベジャス君と何度も手紙のやりとりをするほど、友達になったのか、考えてみると、ベジャス君は,私の子どもの頃にとても似ているからかなと思いました。私はベジャスのお母さんと同世代なので、ときには年上の大人としての考えも伝えたりもしますが,ベジャスの年頃だったときの自分の気持ちを、今もわりとはっきりと覚えています。

わたしが大好きなベジャスの絵のひとつは,うさぎのぬいぐるみの絵.Forlorn Bunny(ひとりぼっちのうさぎ)と書かれています.Forlorn Bunnyは,英語でこのような言い方があるようですが,たぶん野うさぎは冬も冬眠しないので,森の中で他の動物が眠ってしまっても,じぶんだけ残っている、ということからforlorn=取り残された こんなふうに言われるようになったのかなと思っています。

ベジャスの絵は,夕暮れ時に窓辺に座っているぬいぐるみのうさぎが「ひとりぼっち」な状態でいるように見えて、そこに物語があるような気がしてきました.ベジャスには、このうさぎが寂しい理由をお話にしてみたら?とも言ってみているのですが,もしかしたらベジャスは,少年期の心のどこかで,この世界にかならずよこたわっている「孤独感」に気づき始めているのかもしれないと思います.

ふしぎなご縁の,年の離れた友人ベジャスのかわいい作品を,明日7/10から7/24まで、LINNETで展示します.もちろんベジャスにも了解を得ました.もしご来店いただけたら,ぜひ、ベジャス君にメッセージをお願いします.

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* イギリスの野の花えほん

2010/07/03 | Filed under アート, , | Tags .

「野の花えほん 秋と冬の花」がやっともうすぐ校了になり、今月末の刊行予定です。ここ数ヶ月、作業でほとんどずっと籠っていました。

不器用かもしれませんが、集中して籠る、こういう状態がけっこう好きです。LINNETに出勤するのは月に数回ですが,お客様やいろいろな方にお会いすることで,自分にとっては気分転換になっているようです。

「イギリスの野の花えほん」あすなろ書房

ところでこの春、野の花えほんと同じ版元さんから,野の花えほんのイギリスの友だち,みたいな素敵な本が出ました。「ねこのジンジャー」の作者、シャルロット・ヴォーク作です。わたしも若い頃、イギリスでのステイ中に野草の魅力にとりつかれたので,イギリスの野草はとても懐かしい。

イギリスの野草は,ハコベのように日本と同じものも少しはあるものの,日本にはないものも多いのですが,この「イギリスの野の花えほん」で,ほとんどすべての花が、ちゃんと日本語の名前に訳されています。それといつも思うのですが、日本で翻訳本が出ると、日本版の印刷は原書より美しいことが多いです。この本も、じつはイギリス版を持っていたのですが,見比べるとやっぱり日本の本は,印刷がきれいです。そして,イギリス版はペーパーバックですが,日本語版はちゃんとしたハードカバー。最近、海外の絵本はペーパーバックが激増していて,逆に日本では絵本はハードカバーが基本です。なんだか一昔前と逆転しているな,と思います。

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* エミリ・ディキンスンのすみれ

2010/02/06 | Filed under , | Tags , .

MOE2010年3月号のBook in Bookの話題のつづきです・・・

P68と69のすみれの絵のページは,綴じてあるのを取り外せば,一枚の絵になります。まんなかに,ちょっとホッチキスの穴はのこりますが,詩の入っている絵を,ピンとかで壁にはったりして,眺めていただけるかも,と思いながら作りました。

P69の詩に出て来る,「紫色の仕事」。ディキンスンにとって「紫色の仕事」は,「詩作」そのものだったのだと思います。

そして,わたしは,人の数だけ,その人にとっての「紫色の仕事」があると思っています。

たくさんのすみれが,それぞれの紫色の花を咲かせている野原の絵を描いたのは,そうやって,めいめいの人が,ディキンスンのことばで言う「紫色の仕事」をして生きている姿を,そこにかさねて描いてみたかったから。

それにしても,今回ご紹介した6篇の詩のなかで,一番訳でなやんだのは,この詩 (F564)でした。

この詩をはじめて読んだとき,「すみれ」だと思いました。でも,ちょっと難解な詩です。

「背をのばしたあとで,姿をかくす」 「夜は,つぐなってくれない」って,いったい何のことでしょうか。

直感としてイメージしたのは,一年を通してのすみれの様子でした。園芸好き,植物好きの方なら,よくご存知だと思いますが,すみれは,春に花を咲かせたあと,夏頃,葉を大きく伸ばして,花の時期よりもうんと背が高く,大きな株になります。そして,やがて葉が落ちて,根だけで休眠状態になって冬を越します。「夜がつぐなってくれない」というのは,もう何度夜がきても,つぼみはできないということなのじゃないかなと思いました。

「紫色の仕事」は すみれが花を咲かせるということ。。。

そのあと,草の下にある部屋にひきこもる,というのは,根だけで冬越しする「休眠」で,それを「わたしたち」と重ねているのは,「わたしたち」が死んだ後,お墓に入るということになぞらえているのだと思います。

春になれば,まためざめるはずのすみれの休眠状態と,わたしたちの「死」を重ねるのは,キリスト教的な感覚かもしれません。キリスト教では,人の死は「休眠状態」と同じで,みんな最後の審判の日にはよみがえって,天国に行けるかどうかはその日に決まるのです。お墓の中で眠るのは,それまでの間だという考え方が,あるからなのでは。

季節ごとのすみれの生態や,「多年草」であることを,冷静な観察者の目も持っていたディキンスンは,熟知していたのではないかと,わたしには思えるのです。

「わきまえて」これは,とても悩んだことばでした。原詩では「Worthily」,じつは,前の連の,夜が「つぐなう」の語は,recompenseという語が使われていて,worthilyと意識してセットにされていると思います。recompenseには「つぐなう,あがなう」という意味の他「報酬により報いる」という実際的な意味もあり,またworthilyも「相応の報酬を得られる」「ふさわしく」という意味があり,その他「殊勝に」「健気に」「分をわきまえる」という意味もあります。つまり,自分の行動に対し等価値の報いを期待するという意味と,神様に与えられた,自分の分を全うするという意味との両面の意味が含まれるのです。

ディキンスンの草稿では,その他ここの異稿としてprivatelyという語もあったようです。

そこで,Worthilyの訳語には,ほかにも,いろんな語を考えてもいたのです。「日本語としての自然さを優先するなら,「ひっそりと」とか「つつましく」の方が,きれいかもしれないな,とも思ってみたり。けれども やはり,すみれとしての「意思」の存在がすこし見え隠れする語として,「わきまえて」を選んだのでした。でも,もしかして,別の機会があったら,このあたりの箇所は,またちがう訳をしたくなる可能性が一番大きい箇所です。

そして,最後の連で,ディキンスンは,自分がすみれのように生きられるかどうか 自分に問いかけています。ここも,異稿があって,「すみれのように生きられる?いや,無理」とほとんどネガティブに聞こえる方が,いちおう正規のテキストで,でも候補の方では,「生きられるんじゃないかしら」とポジティブな雰囲気になっています。

最後の2行,「うちで育てたひょろひょろミントでも,みつばちの飲みものを 作れるとしたらー」は,原詩では,As make of Our imperfect Mints, / The Julep - of the Bee - です。

不完全な,育ち方のあまりよくない,うちの庭のミントでも,みつばちが蜜をもとめて訪れてくれるわけだから,完璧な自分ではなくても,何かをすることはできる。だから,自然のリズムに従って,季節がめぐってくれば「紫色の仕事」をし,また季節がうつりかわったときには粛々と,草の下にひきこもるすみれのように,死という自然をうけいれる,そんなふうにありたい。

と,ディキンスンは言っているのではないかと 感じるのです。

わたしは,この詩をこんなふうに感じ取りましたが,ちがうふうに読めると感じる読者もいらっしゃるかもしれません。そういうふうに,人によって感じ方がちがう場合があって,ときには答えが一つではないのも,ディキンスンの詩の世界の 広さだと思います。

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ディキンスンに興味をもたれたら・・・今のところ,日本語訳の全詩集は,出ていません。(いつか,そういうのが出たら,もっとディキンスンが身近になると思うのですが。)

でも,いくつかのおすすめの本があります。古書としてしか手に入らないものもありますが,どれも,おすすめです。

ディキンスン詩集(海外詩文庫)新倉俊一 訳 思潮社 刊

エミリ・ディキンスン詩集「自然と愛と孤独と」(続,続々あり )中島完 訳 国文社刊

わたしは誰でもないーエミリ・ディキンスン詩集 川名澄 訳 風媒社刊

エミリ・ディキンスンのお料理手帖 武田雅子 鵜野ひろ子 山口書店刊

原詩の全詩集は,おもに2種類あります。

Complete Poems of Emily Dickinson/ Thomas E. Jhonson

The Poems of Emily Dickinson / Edited by R.W. Franklin

Thomas E.Johonsonは,1950年代に,はじめてディキンスンの手書きの草稿を体系的に整理,編集して,全詩集をまとめあげた人。

Franklinは,Johnsonのお弟子さんで,Johnsonの後を次いで,Johnson版をさらに整理し直し,必要な修正を加えたものを作ったそうです。今,研究者の先生方は,Franklinの詩集を基本的に使用されるようです。JohnsonとFranklinのバージョンでは,詩の順番も違っていたり,所々では,詩文そのものが少し違っていたりします。膨大な量のディキンスンの草稿は,当然手書きのため,読み方に異論が出る箇所もあり,またディキンスン自身による異稿も多く,それらを一つの形にまとめるのには,それぞれの編集者の研究による判断が働いている箇所がある,ということです。

でも,JohnsonとFranklinに共通しているのは,出来る限り,ディキンスン自身の原稿に忠実であろうとしていること。ディキンスンの死後すぐに,メーベル・トッドなどの縁者たちによって出版された初期の詩集は,当時の価値観や,常識とされた表現に合わせて,手が加えられてしまっているのです。実は,このことが,詩の価値を半減させ,ディキンスンが認められるのが半世紀近く遅れたとも言われているようです。本格的にディキンスンが読まれ,研究されるようになったのは,Johnsonによって編まれた全詩集が出てからだということです。

Franklin版が出る前は,ディキンスンの詩の番号はすべて,Johnsonによるものと決まっていたのですが,最近ではは,F564 J557 というふうに FかJがつけられています。モーツァルトの楽曲を整理編集したケッヘルの業績から,モーツァルトの曲にはKではじまるケッヘル番号がついているのに,似ていると思います。

実は,今,神戸女学院大学で,ディキンスン研究の専門家である鵜野ひろ子先生が教鞭をとっておられるので,数年前,先生のディキンスンの講義に1年間個人的に通わせていただきました。その時に教えていただくまで,今は基本テキストがFranklin版に移行していたことを知りませんでした。

わたしは,今は基本的にFranklinの方で訳(個人的に趣味で,すこしずつ訳してきました。ほんとに,すこしずつですが)をしますが,もともとJohnson版のComplete Poemsから入った親しみで,今もJohnson版の詩集もよく開きます。とくに,3巻セットで箱入りになっているJohnson版は,本自体が美しく 置いているだけでもなんだか満ち足りた気持ちになります。(まだAmazonなどもなかった1992年ごろ,丸善で取り寄せてもらって,2ヶ月かかって届きました)

余談:左にあるのは,子供の頃,何度も読んだ なつかしい「嵐が丘」の本。この間,実家でみつけて,思わず持って帰ってきました。

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* エミリ・ディキンスンの庭から

2010/02/03 | Filed under , | Tags .

Book in Book (綴じ込み冊子)を作らせていただいた,MOEの3月号が,今日発売になりました。

今月のMOE,巻頭の特集は,「わたしのワンピース」という絵本でおなじみの,西巻茅子さんの特集です。西巻さんは,刺繍による絵本も手がけていて,やっぱりご自身も,洋裁への愛着がとても深いそうです。

そのほか,絵本のほか手芸本も出しておられるイラストレーターのスドウピウさんや,わたしと同じく京都在住で,布の型染めでいろんな作品を作っている関美穂子さん,それから今回のBook in Bookのデザインをしてくださった大谷有紀さんの2eというユニットによる,びっくりするほど可愛いレースや刺繍の雑貨など,刺繍や手芸,布の手作りが好きな方にも,ツボにはまるような情報が満載で,本当におすすめです。

そして,今回 じぶんの手がけたBook in Bookについて…

森,野原,薔薇… ディキンスンの詩に こんなふうに絵を合わせてみたいな-と,思っていました。たぶん,もう20年は思い続けていたこと。それをずっと以前にMOEの編集のMさんにお話したことがあったのですが,今回こんな機会をいただけることになったのです。

草花そのものを素直にうたった美しい詩。草花というモチーフを通じ,心のなかのことを,表現した詩。今回えらんだディキンスンの詩は,長年いつも読み返してきた作品です。

見開きのすみれの野原のページにある,ふたつの詩は,生き方について語っています。

それから,薔薇の精油の詩は,ディキンスンにとっての「詩作」をテーマにしていると思います。

ディキンスンの詩は,一読しただけでは意味がわからないものもたくさんあります。原詩ならなおのこと,ですが,それは日本人のわたしたちが英語で詩を読むからだけではなく,アメリカ人の人が読んでも,時には「サッパリわからない」そうです。

そういう時は言葉どおりに素直に読んでみると,心で感じ取ることができるのよ。。。というのは,恩師の(ディキンスン研究の第一人者)鵜野ひろ子先生の言葉でした。

今回の絵,去年の11月と12月の2ヶ月ほどの間,描いていました。表紙と背表紙になっている野原の絵は,じつは,p64と65の ねむっている花たちが「めざめた」野原のイメージです。

何度も描き直したりしながら,でも,描き終わるときには寂しくて,もっと,ずっと描いていたいと思ってしまいました。

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* 春の七草

2010/01/26 | Filed under アート | Tags .

せり なずな おぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ。

もう七草がゆの日はとっくに過ぎましたが。。

道ばたや庭では、そろそろ はこべがぐんぐん のびていますね。

みずみずしい日本の野の草たち。

先日の韓国料理教室のときに伺ったのですが、たとえば同じ白菜でも、韓国は気候が乾燥しているので、もっと固く身がしまって、また味も濃いのだそうです。

それにくらべると日本の気候は、湿気が多く、野菜もやわらかくて水気が多いそうです。そして、何でも朽ちたり腐ったりするのが、日本の方がずっと早いそうです。

それを聞いて,なんとなくおもったこと。

日本には、スッキリとして、枯れていて 透明なかんじを好むテイストが いつもみんなの気持ちの根底にあって、どこか つねにそこに戻っていく部分があるように思うのですが、そういう感覚は、生まれ育ったこの土地の「水分の多さ」に由来しているのかもしれません。

風土というものに、心はずいぶん影響を受けるんだなと。そんな気がしました。

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* スカボローフェア - 妖精のいたころの音楽

2010/01/18 | Filed under 音楽 | Tags , .

個人的にもgoogleやwikipedia , LINNETではPaypalと、アメリカで開発されたインターネットのサービスなしでは 毎日が暮らせないという生活になったことに気づかされます。。。

アメリカから発信される文化/文明が、世界の大部分をおおうその前には、世界の大部分が大英帝国の領土だという時代がありました。なので、1世紀強のあいだ、英語は世界のメジャー言語です。いま、英語圏から発信されるサービスの多くは,世界のあちこちで同じように手に入るというのがウリとなっています。外国でスターバックスやマクドナルドの看板をみつけたときには、ホッとしてしまったりして。

でも、ときどき、感じてみたくなるのです。「英語圏文化」が、まだ「辺境」の場所の「フォークロア」だった時代、「ブリテン島」が、深い森におおわれていて、森にはいろんな妖精が住んでると みんながおもってた。そんな時代が,その前にはあったんだなあ、、、ということを。

で,イギリスやアイルランドの民謡を聞いたりします。

たとえば、サイモンとガーファンクルでも有名な「スカボローフェア」はイギリスの民謡だそうです。特徴的なフレーズの「パセリ,セージ,ローズマリー,タイム」は妖精に悪さをされないようにするための呪文だとも言われています。日本でいえば、ほとんど「南無阿弥陀仏」に近いのかな。旋律も,妖精の住む深い森に似合いそうだし。。。

Steeleye Spanというバンドの The Blacksmithという曲,学生時代にくりかえし聞いたなつかしい曲ですが、これもスコットランドの民謡だそうです。Blacksmithは「鍛冶屋」。鍛冶屋の男の人と恋に落ちたけれど、裏切られた。という失恋の歌。Steeleye Spanのほか、いろんな人が歌っています。

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* ポーリー,おはなのたねをまく

2010/01/18 | Filed under | Tags , .

3月中旬に、翻訳をてがけた本が出版になります。「ポーリー おはなのたねをまく」PHP研究所 文 シルヴィー・オーザリー=ルートン  絵 ミリアム・デルー 訳 前田まゆみ  です。ねずみの子 ポーリーが、おじいちゃんにたのまれたお花を育てるのですが・・・?入園のお祝いなどにも良さそうなかわいい本なので、ぜひ、読んでいただけたらうれしいです。

原書は ’La mission de Séraphine ’,ベルギーの絵本です。

(↓うちのPCで見る限り,音声大きめです。音を小さくしてから、ご覧ください。とくにオフィスでご覧の場合)


Lectomaton, La mission de Séraphine, Luton et Renard
アップロード者 lectomaton.

原書はフランス語ですが、仏語だけから直接訳したわけではありません。。。英訳もあったのでございます。

翻訳のしごとは 楽しいだけでなく,他の作家さんの絵本の世界にそのまま入り込むので、かなり勉強にもなります。2月3日発売の白泉社 MOEの綴じ込みブック・イン・ブックでは、エミリ・ディキンスンの詩をいくつか訳出しました。絵本や詩は、ことばが少ないものですが、少ないだけに、逆に難しいことがあるというのも痛感しました。でも、とてもやりがいを感じます。

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* 金裕美先生の韓国料理レッスン

2010/01/12 | Filed under おいしいもの | Tags .

昨日,「おしゃれ工房」などに出演されている、金裕美先生の韓国料理1日レッスンに伺いました。

メニュはキムチ,キムチ鍋,魚介たっぷりのねぎ焼き(チヂミ)、それから干し柿のデザートです。

じつは、わたしは激辛が苦手。でも、金先生のキムチはあっさり味で辛くないと聞き,参加させていただいたのです。

金先生はソウル近辺のご出身とのことで、韓国では北へ行くほどうす味になるそうです。そして評判のキムチは、大根の千切りをくわえ、鯛醤やアミの塩辛のみでうまみを加えた,あっさり透明なお味で ほんとうにおいしかった。そのキムチで作るキムチ鍋のスープもまた、やわらかなうまみたっぷりの絶品でした。

お料理にはとにかくふんだんに野菜が使われ,また唐辛子も韓国産の「甘口」のものが使われていました。日本の鷹の爪のような、あのピリピリする辛みがなく、噛むとほんのりと甘みがあり、しばらくするとかすかに辛みが染みだしてくるような、奥行きのある味が印象的でした。韓国料理というと,つい焼き肉というイメージがありますが、じつは山菜料理や野菜料理など,植物性の食材を活かした料理法が、とてもゆたかだということです。

ちなみに,わたしたちはつい「チゲ鍋」と言ってしまいますが、ほんとうは「チゲ」は鍋料理とは少しちがうそうです。チゲは汁物の大皿料理をさしていて、たとえば、おでんを,大皿に入れてテーブルにサーブしたような感じのものが、正しいチゲだそう。日本で言ういわゆる「鍋料理」は「チョンゴル」とよぶのが正しいそうです。フムフム。

そして、余談ですが、先生にある本のコピーをおみやげにお持ちしました。

野の花えほん」のために文献サーチをしていて、どうしても韓国語の植物名を知りたくて、でもハングル語が読めず困っていると、ご近所友達で京大の人文科学研究所におつとめのYさんが(Y先生とよぶべきかも)、人文研の蔵書から借りて来てくださった「鮮満植物字彙」という本です。昭和7年に刊行されていて、牧野富太郎さんも参照されていたらしい古い本ですが、日本語,ハングル語,中国語で植物名が記され,ローマ字で発音ものっているので、字が読めなくても読み方がわかるという素晴らしいもの。このように3つの言語で照らし合わすことのできる本は、現在でも皆無なので、ほんとうに信じられないくらい貴重な文献なのです。

700ページくらいもある本ですが、又貸しになってはいけないので、わざわざYさんにうちにお越しいただいて、一緒にコピーにおつきあいをいただいてしまいました。ずいぶん時間もかかって、そしてついおしゃべりの方に気がそれて、途中失敗してやり直したりして。

そんなこんなの大事な文献ですが、これを手にできた喜びを 金先生なら 共有してくださるにちがいない。と思い出し,もう一部さらにコピーをとりました。というのも、金先生もお料理や食材について韓国や日本の歴史と合わせて研究を重ねておられて、以前お会いした時に,韓国の山菜にする植物名と日本語名をなかなか照らし合わすことができなくて、とおっしゃっていたからです。その悩み,わかる!わたしはその逆方向の悩みなんですけれども、植物の写真だけでは、案外特定できなかったりするのですよね。(アンド わたしにはハングルが読めない)

それで昨日お料理教室の機会に、その本のコピーをお持ちしたら、すごーくよろこんでくださって、思わず二人で喜びのハグしてしまいました。(こんなこと だれかとしたかった)ピョンピョン飛んでもよいほど、それくらい この本はうれしい本なのです。

本のもつ力や意味って、ほんとうに大きいものです。Yさん、ありがとうございました!!

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